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访问日
2025年11月06日
センパイ
(ムラタ ヨシヒロ)氏
1986年 文学部卒業
テレビマンユニオン エグゼクティブディレクター プロデューサー
-出身はどちらなんですか?
村田:鸟取市です。会社では広岛からバイクで面接に来たってことが知れ渡って、入社后はしばらく「ヒロシマ」ってあだ名で呼ばれてたんですけど。
-なんで広大选んだんですか?
村田:受験の时に东京に初めて行ったのですが、有名私大に受かってたとしても、とってもここでは経済的に暮らしていけないなと、思ったんです。
贫乏人の息子で浪人もあり得ないから、当时年间授业料18万円の国立に行くしか手がなかった。
もともとは文学书を読みまくって画を描くのが好きな学生でした。でも田舎の町にいたので、文化的な楽しみって本当に図书馆と本屋、レコード屋ぐらいしかないんです。当时の地方都市ってみんなそうだけど。映画馆も大したものないし、今みたいにオンデマンドがあるわけでもない。そこで、大きな街で文化というもののありがたさ素晴らしさを学べる町はどこだと。
もうひとつ、鸟取ってものすごく雨が降るのがいやで、雨が降らない街で国立となると、それが広岛だった。世界的にも特别な歴史ある文化都市で、広大は当时市内のど真ん中にありましたし。
级友たちの多くは京都とか大阪を选んでいましたが、僕は受験时に、直感的にここだ!と森戸道路で确信した记忆があります。
-乱読した本の中で、自分の生きる道を决めた出会いみたいなものはありましたか?
村田:高校生の顷出てきた村上春树とか片冈义男らは、当时の青年たちと同じく、僕にもものすごく刺さっていました。同じ顷出会って感激した、ブローティガンとかケルアックとか、デュラスとかマルローとか、ランボーとかキップリングとか、旅や冒険にまつわる海外文学も、その后の仕事につながったものが结构あります。
世界を地域で水平的に、あるいは过去という歴史を时间轴で探検すること、人间にはそれができるんだと。加えて现在と违い、人々がすごくリアルな体験?体感を大切にする时代でありました。大学时代ずっとバイクに乗って旅をしていたことにも、后の仕事に直结している気がします。
文学全集を端から読み尽くしてしまうような青年だったので、好きなことを勉强したいな、现代欧米の文学とか美学、ジャーナリズムとかやりたいなと思い文学部も仏文を选びました。
卒论はデュラスとマルローでしたけど、大戦后の男性的なマチズムの终わりとか、世界的な若者世代の社会革命の机运とか、当时のフェミニズム运动をどう捉えるかみたいなことを体感で学べだのは、すごく良かった。
でもフランス语は、会社に入ったあとで大学时代よりも勉强しました。フランスでの仕事もものすごく多かったので。
-就职のことはどう考えていたのですか。
村田:大学は5年行ってるんです。最后の一年は、自分が何をするのか考えようと、京都とか东京とかの友达のところで泊まりながら、転々とバイクで旅をしていました。
本を読んで映画を见て、いろんなジャンルに兴味を持って、絵を描いてっていう学生时代に経験してきたことが活かせる仕事って何だろうと考えた时に、テレビ番组や雑誌を作る会社がある。仕事として自分の言叶で発信し、自分が行きたい世界に出会えるじゃないかと。
それでも、就职にも真面目に取り组むんじゃなく、どこかでアルバイトしながら、雑誌社とか入れればいいなとかって思ってたぐらいです。テレビって面白いなって考えながら、僕は大学时代下宿にはテレビを持ってなかったんです。
入社することになるテレビマンユニオンとの出会いは、东京にいた友达が「あ、こんなの出てるよ。あんた向いてんじゃない」って见せてくれた「制作メンバー募集」っていう新闻広告。「メンバー制」というプロデューサーや演出家夫々が経営责任を持つ独自システムで运営していて、経営的には无茶なところがある会社なんだけど、时々天才が出て、多くの人を惹きつける番组や映像作品を生んでいる、そんな会社でした。是枝(裕和)监督なんかが同い年ですが、彼は一年后辈です。
実际、テレビマンユニオンが手がけていた「远くへ行きたい」とか、「オーケストラがやってきた」、ライアル?ワトソンの「生命潮流」特番などドキュメンタリー系番组が多くて、これは自分が経験している旅の面白さとか、絵や写真撮ったりしてるのと延长线上にあるのだなと。
ただ、当时テレビはメディアの花形。しかもとても人気がある制作会社だったから応募者は数千人いました。その中から结局4人しか採られなかったんですけど、受けてみたら途辙もなく面白い试験で、こんな会社なら絶対入りたいなと思いました。
-どんな试験だったんですか。
村田:笔记や面接は普通ですが、最后の方の50人での试験は选考委员のメンバーたちと共にバスに乗せられての、ミステリーツアーでした。自己绍介などして着いたところは横浜の中华街で、1000円渡されて、4人くらいで适当にグループ组んでご饭食べてきてくださいって。帰りにもスピーチして东京に着いて、そこで「今日知り合った3人以上の人间について书け」っていうテーマだったかな、作文を书かされました。そこで最终の10人に残れ、结果的に通过したのは4人でした。
-そのときもバイクで上京したと。
村田:面接の时、ヘルメットはさすがに持ち込んでいませんけど、下はジーンズにカウボーイズブーツで、上は东京の友达から借りたネクタイとジャケットでした。面接では「君は上と下の恰好が全然违うね」と话を振られてて。「広岛からは900キロくらい、2日かけて2号线からずっと下道を走ってきたんです。浜松辺りで昼寝なんかして。11月でしたから、ちょっとなかなか寒かったですよ」、とか话をしました。
その顷、会社にはバイクツーリングのクラブがあって、名誉メンバーの伊丹十叁さんとかもバイク仲间にいたんですよ。今はメンバーが150人位、全体で300人位の会社ですけど、当时は40人位しかいない会社なのに、バイクに乗ってる人すごく多かったんです。なんだかアクティブで元気そうなやつが来た、っていうので採られた気がします。
なぜテレビをやりたいのかを问われたときは、「デュラスだったり、マルローだったり、キップリングだったり、そういう人たちのように世界を発见したいんだ」、といった话をしました。田舎の少年だから、本から入って世界を発见するという、それしかなかったんですけどね。ちょうどそれがテレビマンユニオンにとっては、罢叠厂で「日立世界ふしぎ発见!」をスタートする前年でした。
-就活の面接で、カウボーイブーツにジーンズとは、结构大胆ですね。
村田:そういうお祭りみたいな会社だと思ってましたから。面接官にも、革ツナギ着たカッコいい先辈がいたりしました。同じ顷受けた出版社の面接では、さすがに谁もがちゃんとした格好でしたけど。ファッションはコミュニケーションの大きな要素なので、今日はどんな格好していこうかなと、それは今も考えたりします。
そういう自由な発想を育むような土壌が、街の真ん中にあった広岛大学にはありましたね。広大は僕にとっては、ものすごく豊かな空间だったと。
入学した时から、文化都市の広岛でさまざまな体験をすれば、すぐ役に立つことは絶対あるはずだと思っていました。
「青云寮」っていう学生运动の巣だった大学寮の寮生で、月300円の寮费を不払い运动してる偏屈者たちとか、隣を流れる太田川にシジミ取りに行くような奴がいる、そんなところでした。大学内ではローラースケート履いて游んでいたチャラチャラした先辈とか、皆が憧れるマドンナとかバンドマンとかものすごくかっこ良くって、いろんな人が狭いキャンパスにひしめいていたわけですよ。そういう人たちが后に90年代に东京のテレビで活跃したり、作家や编集者になっていたりするのですが、とても华やかでした。
広島というところは、当時音楽では次々と大物が世に出て、映画でも「仁義なき戦い」や、被爆地の現実を描いたアラン?レネ監督の「24時間の情事(Hiroshima, mon amour)」などの舞台になっています。有名なミュージシャンは、必ず広島でコンサートをやる時代だったんです。その意味で広島は本当にハブでしたね。そんな文化都市の真ん中にあった当時の広島大学は、文化センターとして機能していたと思います。街中に学生も多かったし。
近くの鹰野桥にはサロンシネマっていう名画座があって、ここでよくオールナイト1000円で5本立てなんてやってました。そこでも、ヨーロッパの映画を山のように観てました。
帜町には「日本退屈党」という、感度の高い人が集まってくるサロンのようなカフェバーがあって、自分はそこに入り浸って働いてもいました。ミニコミブームの时代で、「帜町プレス」というミニコミ誌を副编集长として任されて作ってました。広岛に来た役者やミュージシャン、文化人などともつながりが浓くて、浅野ゆう子さんや山下达郎さんはじめいろんな人にインタビューしました。
生活のために授业はちょっといいかげんになっちゃったけど、そうしたアルバイトも将来につながる良い経験となった学びでした。
町の人达には広大生を大切にしてくれる気风があって、出张家庭教师や学习塾の电话相谈员とかでは割良く稼がせてもらいましたし、肉屋や深夜饮食のバイトとかでは随分食生活も救われたり。いいバイトが色々ありました。
本当に幸せな広岛生活でした。
-ところで、まだバイク乗ってるんですか?
村田:乗ってないんですよ。3人目の子どもが生まれてから、しばらく事故もできないと思って。全员成人する数年后にはまた乗りたいなと思ってますけどね。
【后编】はこちらから↓
&苍产蝉辫;クリエイターとして世界を発见し続ける(后编) 虚学ってじつはものすごく実学だということを知ってほしい

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