1968年1月、奇しくも日本大学では里口入学(のちに巨额の使途不明金)の発覚、东京大学では医学部附属病院の研修内容改善要求などを発端に大规模な大学纷争が勃発。「学园民主化の要求からベトナム反戦、安保条约反対など政治问题と结びつけて影响力を広げ、大学解体を主张するまでになった」(広岛大学の五十年)。
学生运动は授业料値上げ反対、大学改革などを求め全国の大学に広がっていくのであるが、広岛大学においては1969年1月9日、学园问题全学共闘会议が结成され、大学当局に8项目の要求を掲げた。
生协の设立、各管理権の获得を内容とするもので、2月9日に教养部学友会学生大会においてスト権确立。12日に学生侧と学长?评议员との団体交渉が持たれるが、全共闘系の学生は行动をエスカレートさせ、2月24日に教养部を封锁、占拠。以降、东千田キャンパスの各部局は次々に封锁、占拠されていき、同年の入学试験は全学部とも学外で実施(たとえば文学部は国泰寺高校、教育学部は舟入高校など)されて、新入生は当面の间の自宅待机となった。
そんな騒然としたキャンパスにあって、学生运动のあり方に疑问を感じ、入学式や卒业式中止の动きに立ち向かっていた学生たちのひとりが、体育会干事长を务めていた藤松努さん(政経学部1965年入学)である。
藤松努氏(政経学部1965年入学、剣道部、広岛大学体育会第五代干事长)
藤松:大学纷争の発端は1968年1月で、それが全国の大学に広がっていったんです。そのころ、正门脇に「入学式を粉砕する」というスローガンを书いた立て看板が立てられました。
-东大纷争からすぐの时期ですね。
藤松:教养部学友会のアピールなのですが、入学式を中止させれば目立てる、というだけでやっているような印象でした。「入学式を粉砕して何のよいことがあるんだ」と思いましたね。それは普通の学生の感覚だったと思います。「理由がわからない」と。
それが1967年の秋でしたから、僕らが体育会の干事になって数ヶ月経った顷でした。
当时の体育会は、大学の入学手続き书类と一绪に体育会入会手続き书类も一斉に送っていましたので、9割方の学生が体育会に入会していました。名前は「体育会」ですが、全学的な组织でした。运动部员じゃなくても、野球用品やキャンプ用品の贷し出しを行ったり、各运动部主催のスポーツ大会を开催したり、とにかく少しでも体育会の活动に触れてくれたらということで、いろいろな活动をしていました。
-1年生2年生で组织される教养部学友会とは违う、全学年を対象とした全学组织を作ろうとしていたので、运动部に属していない学生にも恩恵を与えようとされていたわけですね。ある种、戦略的な考えでされていたのでしょうか。
藤松:初代体育会干事长がヨット部翱叠の山根恒弘さんですが、その少し前の代、やはりヨット部翱叠でお寺のお坊さんだった渡辺文人さんがいろいろ考えられたようです。
当时は総合大学とはいえキャンパスが分散していて、なかなか统一意识が持てないいうことを忧虑されていましたし、各部がパーティーやアルバイトを収入源としているけど、きちんと予算化をして运动部の强化を図らないといけないとか、运动部に入らない学生にもスポーツを普及させたいとか、いろんな考えがおありの方でした。
そのための全学组织という构想で、その想いを受けて体育会を作った初代干事长がヨット部の山根恒弘さん、二代目が自动车部の大畠茂さん、叁代目が自动车部の长谷川直哉さんと、部や代は変わっても考え方は引き継がれていました。
-そのような环境のなかで、入学式をどうするか、という问题が発生したと。
藤松:(67年11月の第二次羽田闘争に络んだ学生の処分问题で学生侧と大学の対立によって)大学当局は早々に68年4月の入学式の分散开催を决定しました(注:1969年4月の入学式は大学纷争の激化で中止となる)。僕は、この问题を最も単纯に考えたんです。せっかく合格して、新入生が一同に会するのはこの时しかないと。それを、わけのわからん理由で、入学式を溃すっていうのは、全く理解に苦しむと。
それで、大学侧に「平和公园の中にあった広岛市公会堂や东千田キャンパスから送迎するバスを予约して支払いを済ませているのだから、それ使っちゃダメですか?」と闻いたんです。「どうせキャンセル料を取られるし、お金も返ってこないなら、自分たちが使いたい」と。大学侧と数度の交渉や説明を繰り返した后で了解が得られました。
1968年4月 体育会入会式の様子(写真は藤松努氏)
-それで、「入学式」ではなく体育会の「入会式」を実施したわけですね。
藤松:とにかく準备の时间がないわけ。1週间あったかどうかですよ。二晩ぐらい彻夜しましたね。下宿にも帰ってなかったです。
入会式の準备をしている时に、経理干事が正门前で交通事故で亡くなるという悲剧が起きました。福山から来た卓球部の学生でしたが、パトカーに追いかけられた、酔っ払い运転か何かの车に正门前で衝突されたんです。駆けつけた时には、もう息がありませんでした。激励に来ていた翱叠の声掛けで「景気づけに酒でも」って话になって、买いにいった帰りでした。
-入会式の运営侧は何人ぐらいいたのですか。
藤松:20~30人ぐらいかな。悲剧もありましたが、とにかく準备だけはしました。それで当日の朝、当时は携帯电话なんかないから、现场に派遣している仲间から状况を逐一収集していたら、「続々バスがきて、学生がみんな集まってきているぞ」と伝わってくるんですね。
结局、2,000人くらい集まりました。
こっちは彻夜でヘトヘトで(笑)。とにかく集まってくれてよかった、と。当时体育会同窓会の理事长だった渡辺文人さんが挨拶をして、次に僕が挨拶をしました。まあとにかく、大変でしたね。
-その时に学友会は「入会式」を粉砕しにはこなかったのですか。
藤松:はい。暴力で対抗するとかではなくて、体育会に结束力があって「やるんだ」という気持ちが强かったからじゃないかなと思います。学友会も学生が相手となると、気持ちも振るわなかったんじゃないでしょうか。一切手は出して来ませんでしたね。学友会は本当に粉砕すると考えたのか、东大纷争をきっかけに自分たちもドンパチあげなきゃ気が済まなかったのかはわかりませんが、いずれにしてもそんなに深い理由はなかったと私は思っています。
大学侧も、谁と交渉していいかわからない様子でした。
「入学式粉砕」と书いた看板に「学友会」と书かれていましたが、谁が学友会を引っ张っているのかという実态は分からなくなっていました。
入会式を4月に开催できたのですが、その后も学友会でリーダー的な存在の学生が教坛に教授を数名呼んで吊し上げたりといろいろなことが散発的に発生していました。
広島大学の歴史 昭和40-49年
-吊し上げて何をするのですか。
藤松:暴力沙汰は起こっていませんが、研究や教育一筋でこられた教员がとても答えようがない问答をぶつけるわけです。やりとりを闻いていると、彼らは、革命とか、世界をどうするとか、そんな世界観のあるスローガンや考え方は持っていないように见えました。
僕も、「やばいことになったら止めないといけない」という気持ちがあって、何度か団体交渉の场を见に行ったことがあります。
-そのときの気持ちは体育会の干事としてですか、それとも一学生としてですか。
藤松:両方ですね。僕自身はリベラルだと思っていて、「当たり前のことを当たり前のことにしたらいいんじゃないか」という考えでした。入会式にしてもですが、「一般常识で考えておかしいことは、おかしいよ」というスタンスだったんです。
-学友会はどんな考え方だったのでしょうか?
藤松:中には先鋭的な学生がいたかもしれません。运动部员もたくさん入っていましたが、结局何がやりたいのかは答えられない学生がほとんどで、付和雷同だったんじゃないかと思います。「俺ら学生だから、何しても许されるんじゃない」とか、「なんかしなきゃとか」とか。そういう空気の中で1969年1月に东京大学で起きた安田讲堂事件では、警视庁が8,500人の机动队を导入して、学生侧から多くの逮捕者が出ました。その中には、広岛大学の学生もいたそうです。
-1969年1月の时点で藤松さんたちは4年生、卒业间际という时期ですね。
藤松:はい、就职も决まっていました。体育会の役员は3年の秋から4年の秋までですので、すでに役员も交代していました。
僕は2年の秋から调査局长で役员に入っていました。大学からもう少し各运动部に予算を获得したいという気持ちがありましたね。例えば水泳部は水泳パンツ一丁でいいのか、剣道部は防具一式を揃えないといけないのか、それによる个人负担がどれぐらいなのかを、各部の主将やマネージャー全员に会って、全部调べました。今みたいにパソコンがないから手作业です。それを体育会会长である学长に资料として提出しました。
大学の予算としての支给は増えなかった部分もありますが、学内スポーツ大会で、例えば剣道の试合をやる时に、防具などの现物支给という形で协力してくれました。ただし、私が卒业した后のことでしたが。
とにかく入会金以外の活动资金を増やさなきゃいけないので、大学と交渉する材料が见つかったのが、调査局长としての仕事の成果だったと思いますね。その时の财产は、各运动部の主将、マネージャー、主务とほとんどひとつになれたことですね。それが2年生から3年生にかけてです。
干事长になった际は、各部との予算折衝がありましたけど、自动车部からは恨まれましたね。「马术部の马には饵を食わさにゃ死ぬが、车はガソリン食わんでも死なん、といって、藤松の予算配分は马に优しい」とか言われて(笑)。
-藤松さんが予算配分の最终的な决定をしていたのですね。
藤松:もちろん干事会を経ますけど、一般学生のための备品を买ったり、一対一の予算折衝をして运动部の成绩に応じて予算配分するわけです。エコ贔屓はしちゃいけない。
それから、新しく运动部を作りたいという団体もあったけど、いきなり运动部にはしなかったです。例えば僕らの时にアーチェリー部ができたんだけど、最初2、3年は同好会でやってもらいました。まだ実绩もないのに部员が集まるかどうかわかりませんから、犹予期间をおいて、活动状况が认められたら体育会の运动部としていました。
-そういうのがお仕事だったわけですね。
藤松:そうそう、だからあんまり学校には行ってない(笑)。だけど优は多かったよ。本はたくさん読んでいたから、「中条はむごたらしい蔵をたて、、」(川柳史伝/木枯庵檉风)という俳句を日本経済史的に论ぜよ、という问题もちゃんと答えることができたのを今でも覚えています。
中条流というのは妊娠中絶のことで、当时半分闇でそういうことをしていた医者が储けた金で蔵をたてる、一方农村では年贡が苦しくて村中の人が逃げてしまう、そういう时代背景をきちんと书いたんです。
当时の様子を时系列にホワイトボードに书きながら説明してくださる藤松氏
-1969年1月に安田讲堂の事件が起きます。
藤松:広大にも全共闘(広岛大学学园问题全学共闘会议)なるものができました。それと前后して、広大の正门がバリケードで封锁されて、大学の本部の建物も乗っ取られました。大学の机能が失われてどうにもならない状态でした。
-その时期に八项目要求がで出ていますよね。
※八項目要求(体育会史 83P)
44年、1月9日、広岛大学全学共斗会议(全共斗)が中核派を中心に结成された。下旬に入って、文部省は东大入试が中止に伴って「振り分け増募」を决定した。全共闘はこれに反対し、大学当局に増募せぬよう要求した。これに対し大学当局は「原则として増募しない。振り分けには応じない。定员に満たなければ补欠入学させる。」と回答したが、全共闘はこれを拒否した。そして全共斗が学生部长に団交を要求するといった事态も生じ、学内には紧迫感が漂った。更に全共斗は、大学当局に対する八项目要求を教养部学友会に提出し、学友会はこれを受けて、2月8日学生大会を开催した。夕刻に始まった大会は延々12时间余りに及び、9日未明、賛成1165票、反対1041票(中国新闻2月10日付)をもって、「八项目要求のためのスト権」が确立された。その八项目要求の内容は次のようなものであった。
一、新学生ホールに生协の食堂?売店设备、サークル?自治会ボックスを保証し、学生教职员による自主管理运営権を!
一、生协を学生?教职员の手によって设立しよう!
一、大学会馆の管理运営権を学生-教职员の手に!
一、体育馆の学生?教职员による自主管理?大学村建设を実现しよう!
一、学生の自主活动を规制する「学生準则」を撤廃しよう!
一、寮食堂の炊妇の完全公务员化を実现し、负担区分を撤廃しよう!
一、东大振り分け入试を粉砕しよう!
一、自治会连合を公认せよ!
藤松:そして今度は卒业式を中止にする、というわけです。僕らの卒业式ですよ。卒业式中止に賛成する学生もいれば、ちゃんと卒业式をやれよ、という学生もいて、いろんな意见がありましたので、かなり大规模な自主集会が行われたわけです。テレビも取材にきていました。
体育会翱叠会の理事长をしていた渡辺文人さんがお寺の和尚さんでしたので、体育会の连中が集まる场所として、お寺の本堂の横に翱叠も现役も集まってプレハブ小屋を作りました。本堂じゃ行事の邪魔になりますからね(笑)。
※本経寺は大手町にあって、渡辺叁兄弟の存在はよく知られていた。长男は文学部のインド哲学、次男は近所で喫茶店を営んでいて、叁男(渡辺正氏)はサッカーのオリンピック选手でメキシコオリンピックに出场、铜メダルを获得している。
そこにいろんな翱叠が集まって、「今のままでいいのか」という话になりました。结果、向こう侧と话してみないとわからないけど、集団で行くとややこしいことになるからと、僕が一人で乗り込んで行ったんです。
-一人でバリケードを乗り越えて行ったんですか?
藤松:开けてくれたのか、横门から入ったのか、记忆が定かではないですが、とにかく「话がある」と乗り込んで行きました。向こうはこちらの颜は知っていますから。夜中になっていたと思います。
-すごいですね。何を话されたのですか。
藤松:「要は何がやりたいんだ」と。占拠されていた大学本部の建物の中は、ずいぶん汚くなっていました。学生が节操もなく暮らすわけで、トイレも汚かったし、やりたい放题配置を変えてあるし。
バリケードを作って立てこもっていたのは、ざっと见たところ2?30人でしたね。昼间だけ立てこもっている学生を入れると、もっといたと思います。
话をした相手は、名前も覚えていませんが4、5人でした。ひたすら、「大学の卒业式を中止しなきゃいけない」と言うんだけど、いろんな不平不満や、やりたいことがごちゃ混ぜになっていて、それぞれが言いたいことを言ってるから、意见にまとまりがありませんでした。
先鋭的な活动をしていた学生は东京に行ってしまったので、中に残ってるのはヘルメットもかぶっていなかったし、ゲバ棒を振り回していた记忆もない。东大纷争のニュース映像で残っている火炎瓶とかも见たことがありません。
何日もああいうところに泊まり込んで、ろくすっぽ寝てやしないだろうし、杀気だっているというよりは、なんか半分疲れたような印象を受けました。ただ大きな声でわあわあ言ってはいたけど、いろいろ理屈をこねてばかりだったという记忆です。
-どんな理屈なんですか?
藤松:大学が组织してやる卒业式に出て意味があるのか、とか言うわけですけど、意味がわからないわけです。僕は、「なんでお前らに4年に1回の卒业式を壊されなきゃいけないんだ」と言うのですが、まあとにかくお互い噛み合わない、という実感でしたね。
话をしたのはせいぜい1时间ぐらいです。话が平行线で、これ以上やってもしょうがないなと。ただ最后に、「卒业式を壊すなよ。それでもお前らやる気か?」と言い残して帰りました。
-卒业式はどうなったんですか?
藤松:ありませんでした。今回は俺たちが当事者だから、自分たちで卒业式をやるわけにもいかない。
それで结局、体育会が工学部の教室を借りて自主卒业式をやることになりました。参加者は100人ぐらいだったかな。先生が来てくれたりもしました。うちは、亲父と兄弟が纹付き袴を持ってきてくれました。袴を着ていたのは、参加者の中で私だけでしたけどね。
-ちなみに、卒业试験はどうなったんですか?
藤松:僕は、4年生としては结构単位を残した方で、别の建物で试験を受けました。最后の口头试问は、确か工学部の教室を借りてやりました。工学部のキャンパスは东千田キャンパスから离れているので、全共闘の人间も本部の占拠で手一杯というか、とても工学部や医学部まで手が回らなかったと思います。
-卒业して上京したら、藤松さんの学生运动との関わりは一応终わりですね。
藤松:3月に卒业して上京しましたからね。正门の封锁が解けたのは卒业して数ヶ月后の1969年8月でした。
今だったら、もっと大学側の判断が早いかもしれないけど、当時は「大学の自治」という考えが強かったように思います。 どこの大学でも共通していたはずですが、警官を導入するのは最後の最後、という考え方が、大学側にも学生側にも、いわゆるノンポリと言われる一般の学生でもあったと思います。「こんな状況は嫌だけど、警官が入ってくるのはもっと嫌だ」と。
-一般の学生は、状况をどう捉えていたのでしょうか。
藤松:「状况は変わってほしいんだけど、どうやって动いたらいいかわからない」という学生が大半だったと思います。ましてや个人の力ではどうしようもないし、得体の知れないものを相手にしたくもないし。
-最终的にバリケードの解除では、暴力沙汰やけが人が出ることはなかったのでしょうか。
藤松:僕が覚えてる限りはないです。東大みたいな、激しい火炎瓶のやり取りとかは聞いてないです。 バリケードの封鎖を解く時に、警官は入っても、そんなに抵抗はなかったと聞いています。逮捕者が出なかったはずです。一時的には拘束された人がいたかもしれませんが、それはまあ微罪ですよね。被害者側の大学がどこまでの被害届を出したか知りませんが、誰がやったかも特定できないだろうし。
だから、そこまで腹が据わってなかったんじゃないでしょうか。东大でもやってる、他の大学でもやってるから、自分たちも大学に自主要求を突きつけて、それらしいことやらなきゃいかんという动机のが、かなりの割合だったんじゃないかと。
※ちなみに、学生纷争の象徴的な东大安田讲堂事件(警视庁机动队が行った东大安田讲堂の封锁解除と学生の大量検挙)は1969年1月18日から19日にかけてで、全共闘は安田讲堂事件以后、急速に退潮し1969年中には东大纷争は完全に収束する。
「口伝 あの时の広岛大学」はいったん今回で終了します。
まだまだ書き残していかねばならない歴史は数多くあります。「こんな話がある」「あの事件はどうなった」といった証言、自薦他薦問わず広島大学东京オフィス宛てにお寄せいただければ幸いです。
本稿シリーズは広岛大学翱叠翱骋の回顾をまとめたものであり、広岛大学の公式记録?见解ではないことをお断りしておきます。
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