本稿シリーズは広岛大学翱叠翱骋の回顾をまとめたものであり、広岛大学の公式记録?见解ではないことをお断りしておきます。
-悲愿の统合移転、工学部より开始-
広岛大学の悲愿であった统合移転は1982年、工学部からスタートを切ることができた。
これも当初予定から1年遅れであったのだが、工学部の跡地処分が难航したことなどから(注:大学は広岛市に跡地売却を目论んでいたが、広岛市は无偿譲渡を求めて协议が进まなかった。结局、1985年に半分を譲渡、半分を无偿とすることで决着を见る)、その后の移転は10年近く遅れることになる。当时は、造成予定地の中で工学部の4栋だけがポツンと立ち并ぶ杀风景なキャンパスだったが、そこで学ぶ学生はどんな生活を送っていたのだろうか。&苍产蝉辫;
移転时に工学部第2类の4年生だった栄藤稔氏(现大阪大学先导的学际研究机构教授)に话を闻いた。&苍产蝉辫;

「移転直后の工学部(1982年10月)」
-ないないづくしの移転直后の学生生活-
-栄藤さんが入学された1979年には、もう移転スケジュールは公开されていましたよね。すでに移転モードに入っていたのでしょうか。
栄藤:移転する実感なしに入学しました。入学したときは、工学部生の多くは反対运动をしていて、デモ行进やシュプレヒコールをしていました。今でも思い出しますが、当时の学生部长の名前を连呼したり。
-ということは、学生の立场からすると、移転を食い止められると期待していたのでしょうか。
栄藤:そもそも东広岛に移転するのに、工学部の学生の人数分の宿舎がないんですよ。私は抽选で宿舎に入れましたが、入れなかった仲间も何人かいるわけです。自宅通学生が抽选に当たり、広岛で下宿していた学生が当たらないという不公平もありました。
要は、今の生活が维持できる状况じゃない中での移転だったわけです。当时の东広岛には何もありませんでしたから。
技术をやっている人间は、田舎でも研究できるだろうという、発想があったのではと思っています。技术は市民とつながっていなくてもできるという考えは间违いで、イノベーションは、街中じゃないとできないです。
学生の時には気がつかなかったことが、今になるとたくさん見えてきます。大学と周辺の社会との接点をどう設計するのかが、とても肝心だと考えています。
-実际に移転したあとはどうでしたか?
栄藤:私は4年生だから、まだよかったんです。研究室があって自分の机があるから、大学に行ったらそこでずっとコンピューターをいじっていればいいけど、大学3年で行った学生は悲惨だと思います。授业を受けている时以外、何にもすることないんです。一般教养の単位を残した学生は特にしんどそうでした。一般教养は东千田キャンパス、専门科目は40キロ离れた东広岛キャンパスで受けるわけですから。
-当时のキャンパスには、工学部の4つの建物があっただけでしたね。
栄藤:そうです。雨が降ったら道はドロドロで、车は止まるんです。みんな长靴を持っていました。食堂は、工学部の食堂と、寮の食堂があるだけ。西条の駅前あたりも何にもない。だから友达の下宿とかに行って、みんなでビールを饮んでそのまま泊まるんです。
コンビニもありませんでした。セブンイレブンが瀬野川にあったので、车で行くんです。当时「ブリトー」が発売されて话题だったので、仲间に买いに行ってもらったのですが、2时间后ぐらいに买って帰ってきてくれたのを、みんなで食べましたね。
-車が必需品ですね。 車の所有率はどれぐらいでしたか?
栄藤:クルマの所有率は半分ぐらいだったと思います。残りの半分ぐらいはオートバイを持っていたので、自転车だけという学生は灭多にいませんでした。広岛市内まで饮みに行った友人を、流川の手前で车で迎えに行くこともやってました。
-夜とか休日は何をされていましたか。
栄藤:研究室では、みんな遅い时间まで研究をしているのですが、深夜には寮の谁かの部屋を宴会部屋にして、お酒を饮んでいました。夜はスーパーも闭まっているから、远いところに行かねばなりません。じゃんけんして负けた人间が车でビールを买いに行ったりするんですよ。电车も1时间に1本、バスもそれに合わせて1时间に1本でした。
広岛市内に行ったりもしていましたね。広岛市内に行ったりもしていましたね。当时は土曜日にも授业がありましたから、日曜日に饮みに行くとか。
3年生まで広岛に住んでいた时には鹰野桥あたりで饮んだりしていましたが、その时は人生で一番楽しいと思っていましたね。そこから何もない西条に行くわけですから、転落度合いがすごくて辛かったですね。 キャンパス整备がある程度终わってから一绪に移転すればよかったのに、と。

栄藤稔氏(工学部1983年卒)
-学生の社会との接点が限られた西条砂漠生活-
-アルバイトはどうしていましたか。
栄藤:私の場合はコンピューター専門学校のバイトが遠くなったのが大変でした。時間給5,000円というすごく割のいいバイトだったので、一時間に一本の当時の国鉄(注:日本国有鉄道。分割民営化によって今のJRグループ各社の体制になったのは1987年)に乗ってバイトに行っていました。当時の西条にはバイトもないんですよ バイトしなきゃ食っていけない学生は、瀬野川とか広島市内に住んで、東広島まで通っていましたね。
とにかく学生时代の思い出は、アイソレーションですね。放り出された、という思いがぬぐえませんでした。そんな状况を「西条砂漠」と言っていたような気がします。
-当时、広岛大学の敷地はすべて出来上がっていたのですよね。
栄藤:そうです、真っ暗な更地の周囲を5キロ走るのが当时の习惯でした(笑)。ソフトボールもやり放题でしたね。あと、东体育馆だけはあって、バトミントンをやっていましたね。研究室のみんなでやるのは结构盛り上がりました。
大学の先辈は、キャンパスの空き地でラジコンカーを走らせていました。当时は地元の人の中にもキャンパス内でラジコン机を飞ばす人がいて、无线が混线してラジコン机が落ちたことがありました。その人たちが先辈に向かって「お前がこんなところでラジコンカーを走らせているからだ」と言ってきたので、「ここは大学の敷地だ、胜手に入ってきてるのはお前らだろう」と言い返していました(笑)
-新制大学になった时から、统合して大きなキャンパスを作る、という构想はずっとありました。
栄藤:長い目で見たら、福山にあった生物生産学部などを統合して、一つのキャンパスで一般教養ができるようになったということは、学生にとって大きな意味があったと言えるでしょう。 総合科学部が東広島に移転して統合移転が完了し、ようやく正常化したんじゃないでしょうか。

「统合移転记念讲演会(シュミット西独元首相、1995年11月1日)」
私は専门が情报科学なので、インターンやバイトで行ける会社が近くにあるかどうか、あとは他の大学との付き合いもありますよね。东千田キャンパスの顷は、サークル活动などでいろいろな付き合いが生まれていました。工学部には男性が多いので、周りに女性がいるかどうかも重要です。
社会人として生きていくうえで、「世间ズレする」ことが重要になります。学生の社会との接点が必要性だと思う理由は、世间ズレする机会を「どこで得られるか」なんですよね。学生同士で饮んでいても、世界がどうしても狭いです。世间ズレして社会に出てきてほしいのですが、特に工学部や理学部だと论文を书いてなんぼですから、広岛大学に限らず、今も世间ズレできないままでて来る人がいっぱいいます。
-世间ズレしていない人は、社会に出てからどこで苦労していますか。
栄藤:経験値が少ないので、コミュニケーション能力が落ちると思います。みんな自分の意见は正しいと思うわけですが、相手の意见も正しいと思わなきゃいけないし、相手に合わせることも必要、説得することも必要です。
就职する时も、有名な会社に行けばいいと思っている学生が多いのですが、超大手公司だって消えてなくなることがある、みたいなことは、研究室では谁も教えてくれないわけです。
街の中にいたら、スタートアップを立ち上げた知り合いがいたり、いろんな接点がありますが、接点がないから有名な会社しか知る由もないです。
-栄藤さんは移転して修士2年まで3年间、広大で学んでおられますが、西条の环境に惯れましたか?
栄藤:そうですね。西条駅前に新しい店ができたとか、そんなことがちょっとしたニュースでした。修士2年の顷にはコンビニができて、ビールがすぐに买えるぞ、と。
1982年から始まった统合移転は、1995年の学校教育学部(东云キャンパス、2000年に教育学部と改组?再编される)、法学部、経済学部移転で完了となる。その间に东広岛市は学园都市として目覚ましい発展を遂げて、生活にはなんの支障もなくなったのはご存じの通り。では、最后まで东千田キャンパスに残っていた法学部経済学部の学生はどんな日常だったのか。次回は「1995年の広岛大学」と题して、証言を绍介する。
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