(広岛大学の一体感が希薄であることにふれて)私はかねてから、このことが学生たちの教育、およびかれらの卒业后の人间関係に及ぼす影响などを忧いていた。(中略)私はとくに、选手ばかりではなく、一般学生が会员となって利用できる体育会を组织することに格别の配虑を加えた。これによって、広岛大学における诸学部の実质的な统一を促进し、教授と学生间の人间関係を融和させることを期待したのである。(皇至道 体育会発足当时の学长?体育会会长 『広岛大学体育会史』 1980年)
-まず目をつけたのは似岛だった-
広岛大学体育会が発足したのは1963年のことである。これは単に运动部の连合组织が诞生したという意味にとどまらない。1949年、8つの高等教育机関を统合して発足(1953年に広岛医科大学が遅れて统合され、最终的に9つになる)するが、キャンパスはばらばらの「タコ足大学」。加えて、当时の各学部はそれぞれ前身校への帰属意识を色浓く残した「タコ壷大学」でもあったという。
名実ともに旧7帝大に次ぐ「8番目の大学」としての期待も寄せられていた新しい大学となるためには、学部の枠にとらわれない全学横断の组织が必要だ、その意识は大学?学生がともに持つ危机感であった。
国立大学第八番目の大学として自他共に许す広岛大学も各方面からいろいろな批判を受ける。曰く「学风のなさ」「无気力さ」云々。たしかにその中に居る我々でさえその感じを受ける事が多々ある。この沉滞ムードを何とかして打ち砕いてゆかねばならない。(长谷川直哉 体育会干事长 『フェニックス』※创刊号 1966年)
※フェニックスは体育会発行の会誌。1966年、69年、72年に计3号発行された。

この「学风のなさ」「无気力さ」を指摘したとされるのは朝日ジャーナルの连载记事「大学の庭」である。原文をひこう。
広大生はまじめで、授业出席率はずばぬけてよく、サークル活动にも适当に热心である。やや夸张していえば、若々しい覇気はたいして感じられず、天下泰平ムードが学内に満ちている。教员志望で温厚中正という高师生、文理大生の伝统がまだ生きているのだろうか。
皇学长は今年の新入生に対して、新しい“学风”はこれから、と説かれたという。たしかにそうであろう。「特色のないのが特色」と表现したひともあったように、建学以来の惊异的な成长で形はまず整ったが????というのが広大の现在のいつわらざる実态であろう。(初出は『朝日ジャーナル』1963年6月2日号、笔者は樋口谨一?京都大学助教授)
冷静に読めば、揶揄するような雰囲気は感じられないのだが、当时の広大生はいたく伤つき、ことあるごとにこの行が话题に上り、彼らを突き动かす原动力になったのは间违いない。
「合理的」「立体的」にグラウンドを使う「科学的」学生
その反発心からか、体育会は资金集めや全学的なスポーツ大会の开催などを実现させていくのであるが、最大の目标となったのはグラウンドの确保である。
我々の谁もが大学には広々とした芝生やグラウンドがあるだろう、入学して広々としたグランドで精いっぱい若いエネルギーを発散させようと、梦を见、憧れて大学に入学して来た。しかし、広大の现実はまったく我々の梦を破ってしまった。(中略)昼休みに南グランドではソフトボール、サッカーなどをする人达があふれる。狭いグランドには几チームのコートが重复している。これでは伸々と运动を楽しめないばかりか、负伤をする危険性が多分にある。放课后にはサッカー、ラグビー、陆上、ハンドボール、などのクラブが练习を始める。况やクラブに所属していない学生は放课后、スポーツを享受するなんてとても出来ない
(『フェニックス』第2号 1969年 ”広大か狭大か“)
今度は放课后のグランドに目を向けてみよう。
谁かがそれを见てつぶやいた。「こんなにまで合理的にグランドを使うことができる学生は、まったく科学的な学生だ」と。又、ある人は「こんな使い方を立体的に使っているというのではないだろうか」と。
(中略)
こんな现状を见てくると、运动部员も、文化部员も、一般学生もとにかく全学生が、施设の不备に困穷していることがわかる。そして、おそらくどこかにこの现状を打开する场所を欲していない学生はいないだろう。
(『フェニックス』创刊号 “何よりもまず土地を”)
そこで体育会はグランド探しを始めることになる。中心となった干部の一人が、前出のフェニックス创刊号に巻头言を寄せた広岛大学体育会第叁代干事长、长谷川直哉氏(工学部1967卒、自动车部)。それから60年、当时の事情を闻いた。
全学年?全学组织としての体育会

长谷川直哉氏(工学部1967年卒、自动车部、広岛大学体育会第叁代干事长)
-当时の体育会は、今の体育会の存在と位置づけが违うようですが、どんな存在だったのでしょうか?
长谷川:当时学内に「学友会」というのがあり、体育会とはいろんなことで対立していました。
学校全体を束ねた全学的な组织は、大学発足当时は学友会しかなく、大学が持っている予算を体育会と取り合うような関係にありました。それであまり仲は良くなかったですね。「ユニオンショップで学生なら全员入るようにしよう」と言い出したのは体育会で、入学式で体育会の绍介をする场を设けて学生を勧诱するなどしていました。
※ここでいう学友会とは、教养部学友会のこと。教养部に所属する1年生2年生で构成され、体育会発足までは唯一の学生组织。运动部で干部となる3年生以上は参加资格がなく、体育会発足までは各运动部は学友会员の下级生を通じてしか大学からの予算获得折衝ができなかった。学友会はその后、政治的な活动に舵を切るようになり、のちの大学纷争の当事者となっていく。
※教养部は1991年の大学设置基準の大纲化まで、国立大学に设置が法制化されていた一般教养のための组织。入学した学生はまず1年半~2年间、教养部に所属して一般教育科目36単位、外国语科目8単位、保健体育科目4単位を取得することになっていた。広岛大学の场合は1974年以降、総合科学部が教养部の役割を果たしている。
-全学组织が必要というのは、いろんな学校が一绪になって一つの大学ができたので、いろいろ问题があったということですね。
长谷川:そもそも千田町の狭いところに何もかも全部詰め込まれていたので、「もっと自由奔放に活动できる场所はないのか」という思いがありました。
それで、まず运动部を束ねて、みんなが活用できる施设を自前で作ることはできないのか、と考えました。大手町の本経寺の和尚さんで、ヨット部翱叠の渡辺文人さんが中心メンバーとなって検讨を重ねましたが、徐々に「新しい土地を探す」という方向で话がまとまりました。
-え、土地探しですか?それは「いい土地があるから、大学が买ってください」という発想でしょうか。
长谷川:広岛大学の学生はそういうところは奥ゆかしいので(笑)。直接的に交渉したわけではなく、いかに施设が乏しくて困っているか、他校との比较、今広岛大学でできることできないこと、何が一番困っているかを、资料にまとめて大学侧に提出しました。
太田川の河原を使っていた自动车部
-当时、运动部としてはどんな困りごとがあったのでしょうか。
长谷川:とにかく场所がなかったですね。
たとえば私が所属していた自动车の练习场は、当时の安佐郡佐东町安佐大桥下手の河原でしたが、まず、河川を管理しているお役所に河原を贷してもらうように交渉して、石を拾って整地してコースを作り、练习していました。
キャンパス内の运动场は取り合いで施设も良くなく、どの运动部も练习环境が整っていなくて困っていました。
それぞれの运动部が苦労しながら练习して、全国大会に出ることもたまにありました。自动车部も整备大会で优胜して、トヨタから车をもらったことがありました。运动部の戦果としてはいくつもありましたが、全体を束ねて将来的にどうしていこうという意识は、まだ醸成できていませんでした。
その辺を念头に动いていたのが、体育会设立に尽力された渡辺文人さんや山根恒弘さん(ヨット部)たちでした。タコ足大学をまとめていくというニーズもあるし、それこそ帝大に次ぐ大学として名前を挙げていかなきゃいけないので、全学组织を作ったらどうか、となったわけです。
-干事长に就任したのは、どういう経纬だったのでしょう。
长谷川:僕はその时、自动车部のキャプテンでした。体育会の役员会で、次の委员长、干事长を决める际に、山根さんと大畠茂さんに、「お前ひとはだ脱いで、干事长をやれ」と言われました。3年生の时だったと思いますので1966年のことです。
やるからには何かやらなければ、という気持ちでした。

広岛市の反対で幻となった似岛大学村构想
広岛港から南に约3キロ、広岛湾に浮かぶ似岛がありますが、当时そこに运动场を作る计画を立てていました(学外に作る运动施设のことを当时、大学村と呼んでいた。以降、大学村と记す)。それをなんとか成功させようと、山根さんに「最初にアタックすべきは似岛だ」と提言しました。
※似岛:1895年から第二次世界大戦终了直后まで陆军の似岛検疫所が置かれており、现在でも石积桟桥、军马焼却炉などの当时の军事施设の遗构が残っている。日露戦争、第一次世界大戦当时は検疫所内に捕虏収容所も併设された。第一次大戦时に収容されていたドイツ人捕虏カール?ユーハイムが、収容中に日本初のバウムクーヘンを焼いたというエピソードがあり、日本におけるバウムクーヘン発祥の地といわれる(飞颈办颈辫别诲颈补)。

-なぜ似岛だったのですか。
长谷川:他に场所がなかったから(笑)。船ですぐに行けるんだから、そういう场所でのびのびやったほうがいいじゃないか、と。
ところが似岛を管理する広岛市は、すでに利用计画を持っていました。準备段阶ではそれがわかっていなかったのですが、最后の最后に「広大に使わせるなどとんでもない」という话になってダメになりました。似岛での大学村构想が実现不能になり、「これは大変だ、また场所探しをしなきゃいけない」と。
自分たちには、自动车という足があるから(笑)。自动车部は当时10台ぐらい车を持っていましたが、主に使ったのはデソートというでっかいアメ车、元学长车でした。あちこち车で走り回って场所を探しました。西条はすでに候补に入っていましたので、学生部长を自动车部の车に乗せて一绪に见に行ったりしました。
西条町の方は、皆さん亲切にいろいろと教えてくれました。ただ、我々が场所探しを始めた时には、大学ごと移るとは谁も思ってなかったんじゃないでしょうか。
-候补地(叁永水源地の北侧にある现広岛大学西条総合运动场)はどんな状态だったのですか?
长谷川:整地はされていませんでしたね。原野だけどそんなに大木が生えているわけではなし凸凹でもないので、なんとかなるんじゃないかと感じていました。それぞれの运动部のニーズに応えるだけのキャパもありました。


大学村の候补地が见つかったので、运动部を束ねて実现に当たらなきゃいけない、穷状を诉えるしかありません。「こうなったら文部大臣に状况を闻いてもらわないといけない」となっていったわけです。
(后编に続く)
本稿シリーズは広岛大学翱叠翱骋の回顾をまとめたものであり、広岛大学の公式记録?见解ではないことをお断りしておきます。
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