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报道カメラマンに憧れてテレビの世界へ

访问日

2025年9月8日

センパイ

大賀 広之 (オオガ ヒロユキ)氏
1998年 法学部二部卒業
TBSスパークル ニュース本部  副部長 

-学部やご出身についてお闻かせください。

大贺:法学部二部出身、1994年入学で1999年3月に卒業しました。当時の二部は5年制、現在の夜間主コースになってからは4年制になっていて、僕は二部の最後の学生です。 出身は栃木県小山市です。

亲元を出たいということと、経済的な理由から、働きながら通える大学を探したところ、広岛大学の法学部に二部があることが分かり、受験しました。

-関东地区には二部として学べるところはなかったのでしょうか。

大贺:当时はありませんでしたね。冈山大学、爱媛大学にも二部がありましたので、二部のサークル同士で交流がありました。

-昼间はどんなお仕事をされていましたか。

大贺:テレビ新広岛でカメラアシスタントをやっていました。学内でアルバイト募集の掲示を见つけて応募したんです。当时は広岛テレビ、テレビ新広岛、広岛ホームテレビ、狈贬碍広岛放送局の各局で広大生が报道カメラマンのアシスタントのアルバイトをしていました。

仕事の内容は、カメラマンが取材に行く时の荷物持ちです。ライト、バッテリー、叁脚、それから音声机材などです。车で取材场所に行って、夕方のニュースで放送するので、必ず夕方までは帰ってくることができ、バイトを终えてから学校に行っていました。

-二部生にとっては理想的なアルバイトですね。

大贺:基本的には夕方のニュースまでにテレビ局に戻ってくるので、学校に行く时间はちゃんと确保できました。上の社员の人からも「必ず学校には行きなさい」と言われていました。

-就职活动はどのようにされましたか。

大贺:当时は超就职氷河期、内定が1个取れたら胴上げされるような时代で、本当に求人がありませんでした。

私はどうしても报道カメラマンになりたかったので、罢叠厂の报道カメラマンをやっている会社はどこかを调べて、それが「日本ビデオ」という会社であることが分かりました。
ところが就职情报誌には「日本ビデオ」が全く掲载されていませんでした。

4年生の4月顷、罢叠厂本社近くにある公园内の公众电话で、タウンページをめくって电话番号を探し、电话をかけて、飞び込みで会社を访问しました。

募集の予定はないということだったのですが、「他社の面接で东京に来たので寄らせてください」とお愿いしたり、番组の感想を伝えたり、人事や総务の人たちとかかわりを持っていました。そうした热意が伝わったのか、「今年は採用をやろうと思う」という话になって9月に内定をもらいました。

-そもそも、なぜ报道カメラマンになろうと思ったのですか。

大贺:アルバイト先のテレビ新広岛では、カメラマンの人たちのバイタリティがすごく强くて、いい映像を撮れたらすぐ放送につなげ、いい放送ができたら「やったな!」と喜び合う、そういうノリがすごくかっこよく见えました。

高校生の顷からジャーナリズムに漠然とした憧れはありましたが、実际に报道カメラマンの姿を见て、「やっぱり报道カメラマンっていいな」という気持ちが强くなりました。

-実际に就职されて、お仕事はどうでしたか。

大贺:东京と広岛では会社の规模が违うので、组织のスタイルが全然违いました。完全に分业制で、记者は原稿を书くだけ、カメラマンは映像を撮るだけ、照明はライトを当てるだけ、音声さんは音声だけ担当と、仕事が细分化しています。縦割りで、ステップアップがすごく难しい业界でしたので、カメラマンになるのはとても大変でした。

当时所属した会社の场合、アシスタント、照明、音声を何年か経験して、ようやくカメラマンに昇进します。その次のステップアップは基本的にないので、「カメラマン一筋30年」みたいな人がたくさんいました。
70人程度の部署で、カメラマンになれるのは年に1人か2人ぐらい、「将来絶対にカメラマンになりたい」と待ってる人が30人ぐらいいました。

-どういう人が认められるのでしょうか。

大贺:音声や照明担当の段阶で「こいつには仕事を任せられる」という安心感は必要ですね。それでカメラマンをやらせてみてセンスがいいと、认められます。たとえばペットボトル一つを撮影するにしても、どの角度から撮るのか、絵の切り取り方によってセンスが问われます。

また、たとえば自民党の総裁选挙が前倒しになることがニュースになったとき(2025年9月上旬)、カメラマンは永田町の自民党本部の选挙管理委员会の现场に撮影に行きます。会议の冒头を3分间撮影する「头撮り」の时に谁を撮るか、谁と谁のツーショットを撮るのか、ツーショットからズームインしてどちらを最后に撮るか。后々、ニュースでの使われ方も変わってきますので、センスも下调べも必要です。

日顷からテレビや新闻で政治や経済をはじめ様々なジャンルのニュースを勉强することはとても重要です。

-音声?照明からカメラマンになるまで何年かかりましたか。

大贺:28歳の时でしたので6年かかりましたね。
センスが问われるので、「俺、下手だな」などと毎日闷々としながら过ごしていました。同年代のカメラマンがあの番组に呼ばれたとか、あいつの映像は良かったけど俺はうまくいかなかったなとか、自分の撮った映像について悩むことがたくさんありました。

结局、カメラマンは38歳で社会部にいくまでの10年间やることになります。

-なぜカメラマンから社会部へ。

大贺:カメラマンとしての才能に限界を感じて、一念発起、転身しました。ちょうどその顷から、罢叠厂の报道カメラマンのセクションと、社会部や経済部で原稿を书くセクションとの人材交流が始まり、初期の顷に僕が选ばれました。やりたくないと断る人もいましたが、僕は「やります」と言いました。

-カメラマンから记者への転身は少ないのですか。

大贺:カメラマンは、「撮ってください」と言われたものを撮るのが基本なのですが、记者はネタを取ってくる、原稿を书く、足が棒になるまで现场を歩き回ってネタを探し回ったり、人に気を遣って头を下げて、嫌な取材先にも头を下げて「すいません、すいません」と言いながらなんとか食らいついて、という仕事、とても大変です。元々のタイプが违うのでカメラから记者というのは少ないですね。

特に記者に成り立ての頃、事件現場に行って、いわゆる地取り取材をするのですが、他局では22~23歳の社会人一年生たちが走り回っている中、38歳のおじさんが一緒になってやっていました (笑)。

目撃者探しや、事件の犯人の家の近くでインタビューをする机会がありましたが、「何轩かピンポンしたら话を闻かせてもらえるだろう」という軽い気持ちではなくて、ちゃんと真面目に、隈なく回らないと取れないんだな、ということをすごく感じました。

-社会部の仕事はいつまでされましたか。

大贺:オリンピックが终わる2021年の夏までです。国土交通省担当、东京都庁担当を経て、东京オリンピック担当も兼务することになり、その间にコロナが始まり、オリンピックが延期になりました。东京オリンピックが终わり、コロナも収束に向かいつつある时期に、记者としての活动は终わり、朝の情报番组のプロデューサーになりました。初めて记者ではなく管理者侧として、事実误认がなかったか、现场でトラブルがなかったか、予算管理やコンプライアンス的な问题がなかったかの确认などの业务を経験しました。

-今はどんなお仕事をされていますか。

大贺:编集长として、ニュースの顺番を决める仕事をしています。主に平日お昼のニュースを担当していて、トップニュースをどれにするか、放送时间、担当者などを决めます。

-いろんな要素で顺番が决まるのでしょうが、どうやって判断するのですか。

大贺:ニュース感覚を问われますね。「トップ项目にこれはダメだろう」と意见される时もありますし、逆に社会の反响を呼ぶような大きなネタが取れれば、各社が别のニュースをやっている中、うちだけ分厚く取り上げることもあります。

どのニュースを头で取り上げるかの感覚は、経験で磨かれるところですね。自分が迷っていたら全员が迷ってしまうので、自分の判断でやるしかありません。意见がぶつかることもありますし、恨まれるようなこともあります。

-その时にどうやって相手を説得するのですか。

大贺:そのニュースが社会生活、市民生活にどれぐらい影响を与えるのかを社内で议论して、どれだけの视聴者にとって有益な情报なのか、の観点で判断するようにしています。

なんとか放送ができる形にしつつ、落としどころを探っていくこともありますし、他のニュースとの兼ね合いで放送时间の调整を求めたり、他の番组に持って行った方がやりたいことができるのでは、と提案したり、いろいろなケースがあります。

-うまくいくための経験则はありますか。

大贺:みんなが同じ方向を向いていることです。
罢叠厂のニュースで放送することによって、どういう効果を生むかという大义の部分で方向性が同じだとうまくいきます。その方向感を同じく持てるか持てないかだと思います。

相手を説得する时には、罢叠厂ニュースで力を入れているところや、视聴者の関心がどこに向いているか、をベースに话し合います。

そのためには、日顷から、プライベートも含めて仲良く楽しく付き合っていくことも、すごく大事です。

-普段からコミュニケーションを必要とする相手は何人ぐらいいるのですか。

大贺:一つのお昼のニュースを作るために编集部にニュースを持ち寄ってくる社会部、外信部、経済部、政治部の4部があって、その4部に3人ずつぐらい「デスク」と呼ばれる责任者がいるので、社内だと15人ぐらいですね。

他にも闯狈狈のネットワークには27の地方局があり、それぞれにデスクがいます。日顷は电话やメールのやり取りだけですが、年に1回全国会议があり、东京で3时间ぐらいの会议を行います。

会议が终わった后に、饮み会があるのですが、その饮み会が重要で(笑)。电话よりも相手の雰囲気がわかりますし、「この间はこういう风に放送できたのでよかったです」とか「もうちょっとこうやって欲しかったです」ということを、お酒の力も借りながら、ストレートに伝えることができるのは大事ですね。

现在担当しているお昼のニュースは、午前11时半から放送されますが、世の中が始まるのは概ね午前9时からなので、放送までに2时间ちょっとしかありません。その间に、事件や事故なら警察署などに电话をして闻き取り取材をして、カメラマンは现场で撮影をします。その后撮ってきた映像を编集して、字幕を付ける、という作业も含めて1时间~2时间、下手したら30分でやらないといけないという世界です。

だいたいのアウトラインは自分の头の中だけでは前の晩ぐらいから考えていますが、そのとおりにはいきませんね。

どこで优先顺位をつけるか、僕がずっと悩んでいたら仕事が进まないまま放送时间だけが近づいていくので、迷ったり止まったらダメなんです。时间との戦いですね。

-ストレスにはならないんですか。

大贺:僕には向いているみたいです。うまくいった时の方が「よっしゃ!」という感じで。&苍产蝉辫;

现场以外にも、记者クラブにいる记者さん、情报を取って発信する记者さん、本社で编成顺を编集する僕みたいな人间、番组を编集する编集マン、放送に出すスタジオ、原稿を読むアナウンサー、みんながそれぞれの役割をやって初めて1个の番组ができます。みんなで作り上げていくのが、テレビ番组の好きなところです。&苍产蝉辫;

学生の时に大学祭実行员会をやっていましたが、それと同じ感覚です。
当时は二十歳前でしたが、それぞれの人间がやっていることは地味かもしれないけど、それが组み合わさって1个のものができるのがすごくいいなと思って、学生时代はずっと大学祭実行委员会をやっていました。二部は、社会人の人もいたし面白かったですね。

-现役の学生にはどんな生活を送ってもらいたいですか。

大贺:自分が住んでいる広岛の枠にとらわれずに、広岛以外だったらどうだろう、世界はどうなんだろうと、広く见ていくこと、决めつけないことじゃないかなと思います。&苍产蝉辫;

テレビ新広岛のアルバイトで、人が行けないような场所にたくさん行くことができたのは、とてもいい経験でした。原爆ドームの中に入って撮影したり、当时まだ未公开だったレストハウスの地下に初めてカメラマンと一绪に入ったりしたこともありました。初めて见るものや、その场で感じた空気に刺激を受け、そういう経験がニュースの现场でいろんなことに揉まれるという今の仕事につながっているのかもしれないですね。

また、他の大学の人たちと平和に関する国际会议を作るサークルに入った时もありましたが、同い年で真面目に平和のことや世界のことを考えている仲间がいて、「俺が考えていることはちっぽけだな」と思う时もありました。広岛にいるだけでも见ることができること、感じられることがたくさんあると思います。

今から振り返ると、お金がなくても、もっと旅に出ればよかったと思います。旅に出ると価値観が変わります。日本にいれば赤信号を渡っちゃいけないのが常识ですが、海外に行けば渡る人もいるだろうし、危なくなきゃいいじゃんという考え方もある。こういうやり方があるのか、とか、こんなんで済ましちゃう时もあるんだなとか、そういう気づきがあります。

人との出会いも大きいと思いますので、同じ大学の人とずっと一绪にいるだけではすごくもったいないので、たくさん交流して、「こんな人もいるんだ」と知るだけでとても価値があると思います。&苍产蝉辫;

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