<お问い合わせ先>
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访问日
2025年4月24日
センパイ
荒木 太朗(アラキ タロウ)氏
1999年 工学部卒業
主宰

-大学时代はどんなことをしていましたか。
荒木:アンガールズと出会うきっかけのサークルに入っていました。ほとんどサークル活动をしていた记忆しかないです。学业は最低限のことをやって、试験をとりあえずパスしただけ、という感じでした。
高桥康徳さん(现:株式会社カウテレビジョン 代表取缔役社长)がつくられた「ボルケーノ」という、広岛のいろんな大学の学生が集まる企画系のサークルでした。当时は企画系のサークルが流行っていて、市内にオフィスも借りていました。
※「ボルケーノ」を创设した高桥さんへのインタビュー记事はこちら。
西条に住んでいましたし、キャンパスは西条でしたが、授业が终わったら広岛に行っていましたね。
-ボルケーノではどんなことをやっていたのですか。
荒木:あの时代ですから、クリスマスパーティのようなパーティや、新歓コンパ、スキーツアーみたいなツアーも组むような、ノリの軽い系のサークルでした(笑)。
-田中卓志さんもそこにいたと。
荒木:はい、山根もいました。山根は修道大学でした。
-田中さんも荒木さんも卒业时に就职先が决まっていたとのことですが、东京に出てくるまでに何があったのですか。
荒木:僕と卓志と山根、それから山根の当时の相方の4人で、大学4年生ぐらいから、芸人になるかならないか、という话をしていました。でもやっぱり怖さもありましたので、ある时期からふわーっとその话はなくなりました。
で、僕はある公司の内定をもらったけど大学院に进むことになり、田中も就职が决まったという话を闻いてたので、もう何事もなく普通の人生を歩むのかなと思っていました。
そんな时、学部卒业间近の3月、田中と连络が取れなくなってしまい、みんなで田中が住んでいた西条の家に行きました。そうしたら键がかかっていて、1阶だったので外から覗いたらもぬけの殻でした。
「あいつ、东京行った!」となって、3人で追いかけました。ドラマみたいですけど。
-田中さんは本当に东京に行っていたのですか?
荒木:はい。彼の中では决意が固まっていたのに、僕ら3人がグズグズしていたというのがあって、一人でやる気だったんです。就职先が决まっていたので、教授の机にお诧びの置き手纸があったそうです。
-当时、お笑い芸人になりたいというモチベーションは何だったのでしょうか。
荒木:ボルケーノのイベントで、4人でよく司会をやっていましたが、「笑わせられる能力はある」という自信がありました。テレビでは、当时「ボキャブラ天国」という番组の全盛期で、「芸人がちょろっとテレビに出て、めっちゃ人気出てるじゃん」と、そこから意识し始めましたね。2、3年生の顷だと思います。
-今はお笑い芸人になるための学校がありますが、お笑いに関しては独学ですか。
荒木:当时は、吉本の狈厂颁以外は、お笑い事务所が养成所を抱えていなかったと思います。月に1回ぐらいネタ见せに行って、そこでよければライブに呼ばれて、ライブで结果が出たら事务所に所属する、という流れでした。
-何の胜算もないまま东京に出てきたんですね。
荒木:若さもあって、东京に出てきた时は「いけるだろう」という自信がめっちゃありました。根拠のない自信ってやつです(笑)。
-お金や住むところはどうしたのですか。
荒木:バイトしながらですね。姉が东京にいたので、住むところは姉の家に2-3日泊っている间に决めました。大学院に3か月在籍していましたが、その间学校に行かずにバイトして、その资金で家を见つけて引っ越ししました。そこに卓志以外の3人で一绪に住んでいました。
-场所はどこですか。
荒木:东村山です。志村けんさんが生まれ育った场所だということで、あやかろうと。当时はバラエティ番组で「オレたちひょうきん族」と「8时だョ!全员集合」が全盛期でしたが、僕は全员集合派でしたので。
-どうやって活动拠点を広げていきましたか。
荒木:当时、埼玉に住んでいた卓志もよく家にきていましたが、僕と卓志でコンビを组んで一绪にお笑い事务所にネタ见せに行っていました。
2年ぐらいやっているうちに、山根と卓志が组むことになり、山根の元相方は広岛に帰ってしまったので、僕は一人でやることになりました。なので僕と卓志の活动としては、ネタ见せしかやっていないことになります。
-ネタ见せはどれくらいのペースでやっていましたか。
荒木:それぞれ月1回开催されていましたので、大手のワタナベエンターテインメント、浅井企画、人力舎だけで月3回というペースです。
例えば人力舎の高円寺とか、各事务所の场所で开催します。高円寺は近くに公园があって、そこでみんなネタ合わせをするのですが、そこには事务所に所属する前のザブングルなどがいました。
-どんなネタをやっていたのですか?
荒木:しゃべくり漫才系で、僕はツッコミ担当でした。例えば「月刊技」というネタは、古本屋で「この技をやれば谁でも达人になれる」という本を见つけて、古本屋の中で実际に技をかけたら、田中が崩れ落ちる、とか。早すぎた感覚かなと思っています(笑)。
二人の间で衝突もありました。田中も僕も、両方ネタを书いていたのが原因だったと思います。一方で山根はネタも书かないし意见もしない。あれが山根の能力だと思うんですよね。卓志にちゃんとついていける。田中にとっては、山根の方が相方としてよっぽど居心地が良かったと思います。
-その后はどうなっていくのですか。
荒木:田中と山根の二人は、コンビを组んで割と早めに目をつけられました。あのビジュアルですから。それをよそに、僕は役者になろうと、一人で役者の事务所に行きました。
当时は顿痴顿が大量流通していた时代なので、秋叶原でグラビアアイドルの顿痴顿発売记念イベントの惭颁などもやっていました。芝居もするけど、しゃべりでもいければいいな、というのが20代の过ごし方でした。
-解散して5、6年は、まだ何か掴んだわけじゃなかったんですね。
荒木:全く掴めていません。一方で田中と山根はめちゃくちゃ売れていました。二人でコンビを组んで2年目ぐらいの时には、もう认知されていて、すごいスピードで売れちゃったんです。
爆笑问题さんの番组で、后に「キモい」という言叶ができたのですが、キモイ系の芸人だけを集めた番组があって、そこに出演したのがきっかけですね。
「キモカワイイ」という言叶は、あの2人が出てからできたものです。今は歳を取って2人とも少し丸みがでていますが、昔は本当に棒が2人并んでいるみたいな感じだったんで(笑)。
-その后どうなられたのですか。
荒木:30歳で役者の事务所を辞めて、一人でやり始めました。事务所时代に舞台を1度経験していて、脚本と演出をやる机会もあり、「これ、自分でできるんじゃない?」と思い、事务所时代の后辈や友人たちと一绪に、今の剧団の前身の「チームザロケッツ」を作ったのが30代の最初ぐらいです。
-最初はどんな舞台をされましたか?
荒木:「ニャンダフルデイ」というタイトルで、公园に男子が4人集まり、「前に公园に来ていた綺丽な女の子を最近见かけないけど、どうなったんだろう」という话题を会话だけで回していく、という内容でした。结局その子は死んでいたという设定なのですが、僕の中でちょっと泣かせるようなものを书くのが流行っていたんです(笑)。
その時は男性4人のチームで、ヒロインに女性1人か2人、という少人数の舞台をやっていました。その後、僕が裏方に引っ込んで、今の剧団シアターザロケッツになってからは、20人弱が出演しています。
-20代の时は役者のギャラで生活できていましたか。
荒木:全然食えなくて、バイトやってました。一番长くやったのは、カラオケボックスとコールセンターの深夜です。给料もコンビニなどに比べるといいですし、融通もききやすかったので、コールセンターは役者、芸人仲间はみんなやっていました。
30代后半からヒューマンアカデミー横浜校の讲师をしていますが、それが安定収入となっていて、アルバイトをしなくてよくなったのはそこからです。
-剧団の経営はいかがですか。
荒木:大変ですが、剧団としては悪くない方だと思います。1年に2~3回公演を行い、1回の公演で1,000人以上は动员しています。
-そこまでして演剧にこだわる理由は。
荒木:会场のライブ感、空気感を感じた时に、苦労が报われた気持ちになります。コメディ剧団なので、お客さんが笑っていると、「良かったな」と思います。あとは正直、「他に何ができるんだ」と言われた时に、もうないだろうって(笑)。

「剧団シアターザロケッツ」WEBサイトより
-こういう世界にいらっしゃるから「めちゃくちゃ売れたい」という思いは当然お持ちですよね。
荒木:昔に比べると、少し落ち着きました。歳を取ったからというのもあるし、もしかしたらある种の諦めもあるかもしれません。芸人时代は芸人として、役者の时は役者として、剧団をやり始めた顷は、他の剧団に対して强いライバル心を持っていましたが、今は、楽しけりゃいい、コツコツ顽张っていればいい、と思えるようになりました。
昔は、相手を下げるのに必死なところがありましたが、周りを下げても自分たちが上がるわけじゃないことに気づいてからは、焦りがなくなりましたね。
-田中さんに嫉妬する気持ちはありますか?
荒木:20代、30代前半は、めちゃくちゃありました(笑)。向こうは向こうで接しにくいですよね。こっちは全然売れていないわけですから。20代はほとんど连络を取っていませんでしたが、10年ぐらい前から関係性が戻り出しました。向こうも僕も丸くなっていますし。
山根は芝居も见に来てくれたことがありますし、卓志とはラインもします。「この间千田塾(※)行ってきたけど、みんなお前に会いたがってるよ」みたいなことも。
(※) 関东支部で恳亲会が定期的に开催されている
-种子岛ご出身だそうですが、人生の中で大きい存在になっていますか。
荒木:そうですね。剧団の名前自体を、种子岛にゆかりのある「ロケット」から取っています。いい意味で、田舎者が顽张っている、と思っています。
-そもそもなぜ种子岛から広大に入学されたのですか。
荒木:种子岛からは鹿児岛大学に行く人が多いのですが、种子岛のクラスメイトって、もうほとんど全员亲戚みたいなものなので、「大学に行ってもこいつらと一绪にいるのか」と思って(笑)。
で、鹿大じゃないところとなると九大だったんですが、亲父たちから「浪人はなるべくしないでくれ」と言われて。「ちょっと远くに行きたい」という気持ちと偏差値的に合致したのが、たまたま広岛大学でした。
-これから剧団をどう伸ばしていこうと考えていますか?
荒木:もう2ステップぐらい、目指しているのは常时2,000人规模の大きな剧场で公演ができる剧団です。有名人を起用するなどマンパワーに頼るとその役者が出演できないと成立しないので、いい脚本や演出が提供できて、谁が出演していてもロケッツの公演を见たい、という人がもう少し増えてくれるといいですね。
