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株式会社コスモスイニシア 代表取缔役社长 高木嘉幸 氏(后编)

访问日

2019年5月14日(火)

センパイ

高木 嘉幸(タカギ ヨシユキ)氏
1983年 広岛大学法学部 卒业

株式会社コスモスイニシア

访问记(后编)

日本に帰国、リーマンショックの厳しい経験を乗り越えて

―日本に戻って、浦岛太郎になった瞬间はありましたか。

高木:2008~2009年顷、リーマンショックの影响で不动产関係の业界が厳しくなっており、当时のトップの要请にて帰国しました。19年间のオーストラリア驻在でしたので、亲しいお付き合いを継続しているお取引先もなかったのですが、各所にお愿いやお诧びに伺うことが主な仕事でした。

私が日本の当たり前を忘れてしまっていないか社员が心配して「高木はオーストラリア人ですので、日本でのお作法がわからないかもしれません」という绍介をしてくれたこともありました(笑)。オーストラリア驻在中も定期的に帰国していましたし、ある时期からはインターネットで情报収集も当たり前になり、帰国时の上层部には以前に一绪に仕事をしてきた人たちがいましたから、そんなに浦岛太郎という感じではなかったです。

厳しい会社の状况でしたので、当たり前のことをするよりも、色々とリセットが必要なタイミングでしたので、やり易い侧面があったことも事実かもしれません。

―リーマンショック后、それを乗り越えてこられたということですね。19年间のオーストラリアでの経験が活きたなと思う部分はありますか。

高木:欧米流の経営というか、オーストラリアにおけるディスクロージャー?监査?ガバナンスの要请などを体験しましたので、帰国后、当社を含めて日本では当たり前と思われていることが、少し违うのではないか?と感じたことはいくつかありました。

―上场公司の代表として世间の注目を浴びておられますが、自分だったらとてもそのプレッシャーに耐えられないと思います。

高木:会社の规模が巨大ということでもなく、今は安定的な亲会社もありますので、そこまでプレッシャーはないんです。

ただ、リーマンショック以降の3年半程度はかなり辛い期间でした。亲会社がなく、主要取引银行から融资を顶くことも困难な状况で、2009年当时に约900人いた従业员を半减せねばなりませんでした。再就职を支援してくれる会社と提携して、私も含めて部长职以上がそれぞれ一定数の従业员に対して面谈を実施するようなこともありました。

二度と経験したくないことをたくさんの人が体験しました。ただ、そのとき退职された多くの人たちが「自分の古巣である会社が存続することはとても重要であるし、コスモスイニシアの卒业生だと胸を张って言いたい。间接的にもできることがあればサポートするので、残った皆さんで顽张ってくださいね」と言ってくれました。そういう人たちのためにも顽张らねばならないと思いました。

―それを境に、会社の文化はかなり変わったと。

高木:不动产を购入する為の资金を取引银行からの借入れでは无く、自分たちで何とか调达せねば事业を継続できないという环境に直面し、すごくいい勉强になったことは事実です。

不动产开発事业では、私たちは発注者で、建设会社さんが建ててくれます。通常であれば発注者の立场が强くなりがちですが、苦しい経験をしたことで「共存できる関係构筑が大切」と考えられるようなマインドのリセットができたと思います。

厳しい状况で旗を振る役割となり、大事にしないといけないなと思ったことは、江副さんがつくりあげたリクルートならではの文化に再度スポットをあてることでした。「皆経営者主义」とも言われましたが、自分が何かを创り上げるのに、自分の力が足りなければ周りの力を动员する。そうしたことが出来る人たちが必要であり、そうしたいと思う人を採用することが、创业以来ずっと続いていますし、今后もそんな人たちに入社して欲しいと考えています。若くても色んな経験ができる机会?环境は提供するので、成长の先には、自分なりの道を歩んでくれても构わない…と考えています。

言われたからやるのではなく、自分たちで考えて何かを创りあげる、という姿势が创业以来大切にしてきている基本であり、厳しい时にこそ一番大事。そのことを一生悬命社内で言い続けましたね。

―何かキャッチフレーズのようなものにされていますか。

高木:「自ら机会を创り出し、机会によって自らを変えよ」というのが、私が入社した顷のリクルートの社训でした。今年度から当社も新たな成长ステージへの歩みを进めたいと考え、将来どんな姿を目指すべきかを経営阵で议论し、大事にしたい価値観の中にその言叶をそのまま残しました。それがみんなしっくりくるという结论でした。

広大生时代は、アメリカンフットボール部のキャプテンとして活跃!?

―学生时代の思い出を教えてください。

高木:不真面目な学生で、学业のことは…(苦笑)。

―なぜアメフト部に入られたのですか。

高木:両亲は福井県で理髪店を営んでいました。私は长男で、小学生の顷から田舎を出たい、家业を継ぎたくないと思っていて、父亲からは「现役で国立旧一期校*1に受かれば、家业を継いでくれとか、田舎に留まれということは求めない」と言われていました。

(*1:1949年から1978年まで実施されていた日本の国立大学入试制度の区分の一つ。)

そうしたこともあり広大に进学したのですが、福井出身の学生も少ないし、みんな広岛弁で话しているし、カープファンでもないし(笑)というような状况の中、入学早々に森戸道路に沿っていろんな部活动の勧诱が行われている中、一番端っこに「アメフト」と书かれたコーナーを见つけたんです。スポーツはずっとやってきていまして、小学6年の时は市内の卓球チャンピオンと柔道クラブチャンピオン、中学3年の夏の大会では、野球部でピッチャーをしていて県大会3位でした。

―すごいですね!

高木:福井県なので参加者や参加校が少ないですから(笑)。

当时のアメフト部には、自分と同じように県外出身者も多く、少し変わったことをやろうとの思いで集まっている先辈方だったので、なんとなく亲しみやすかったのだと思います。体験参加でタックルなどやってみると体中痛くなって、翌日に「辞めます!」と言うと「まだ一年生は君しかいないから、そうはいかない」と言われ(笑)。そんな経纬で入部しましたが、3代目のキャプテンとなり、ちょうど中四国学生アメリカンフットボール连盟を立ち上げようというタイミングで、初代连盟委员长になりました。

当时は「爱好会」で、练习には部员がなかなか集まらないのに、合コンとなればみんな集まるようなことも(笑)。

………学业におけるまじめな话が何一つできなくてすみません!(苦笑)。

なるべく自分らしく生きるようにした方が、自分も楽だし、周りの方も楽

―これまで大きなご决断をされてきたかと思いますが、その际に何を一番大事に考えられてきましたか。

高木:最初に自分で大きな决断をしたのは、たぶん就职活动のときだと思います。有名な大公司を受けていました。しかし、一生この会社に勤めたいと思って就职するのは、なんだか気持ちが悪いというか。东京に出たい、そして海外も経験してみたい、などと思っていたのですが、大公司に入ってどうするんだろう?と最后にもやもやするものを感じていました。

それよりも、元気が良さそうで、若い人が顽张っている会社に先ずは入って、30歳くらいまでやってみたら、またその时にその先のことは考えてみるというような考え方が、今は一番すっきりくるんじゃないか。それが一番自分らしい决断なんじゃないかなと。それで、一番、何をやっているのかわからない会社に入りました。若かったし、元気もあったので。

リクルートに入社して东京での勤务の后にオーストラリア赴任となりましたが、そこには特殊な背景もありました。実は、结婚して最初の年から离婚の危机でして。「いつまでたっても会社から帰ってこない」「休みもなくてこんなに働いて何が楽しいの」などと妻から言われて、まずい状况でしたので、会社を辞めないと妻との関係は维持できないんじゃないかとも思い、上司に内々で相谈もしました。

高木:そんな时にオーストラリアでの事业开始が决まり、私に赴任の机会が访れた次第でした。海外驻在で顽张ってみなさいと会社が机会を与えてくれて、思い切っていくことにしたのも自分の决断のひとつです。当时、妻は「こんないい国は他にないわよ」と言っていましたし、今では「あなたと一绪になったので、オーストラリアに来れたことは良かった。(以上!)」と言われます(笑)。。

オーストラリア驻在中は、苦しいこともありましたが现地责任者として努力もしました。あまり详しくはお话しできないのですが、リゾート运営事业ですから、忙しいシーズンと闲散シーズンがあって、时期によっては资金が回らなくて従业员の给料支给も危ういこともあり、日本の本社にはあまり详细を知らせずに、现地での取引先に一定期间の资金融通をお愿いしたりなどしていました。自分が何とかしなければ…と考えてやっていたのですが。

日本に帰国して社长に就任したことは、縁やタイミングによるものと思います。会社の従业员を半减せねばならない状况下で私より先辈の役员さんが辞任せざるをえないこととなり、私を含めた4人のみが役员を継続することとなりました。当时のトップから「会社の状况はかなり厳しいから覚悟して貰わねばならない」と言われました。谁かがやらねばならぬことであり「厳しくてもやります」と言った自分がいました。

なんというのでしょうか…これまでの私は、自分が自分らしく、やりたいことがあったらやりたいなと思うことを大切にしてきたのかもしれないですね。

ただ、この时は、自分のためでは无く、これまでお世话になり、半分の人が辞めていかねばならないこの会社に対して何かできるのなら、最后のご奉公をとの思いで、自分のことや収入なども二の次でした。

妻も子どももオーストラリアに帰化していましたし、子どももある程度大きくなっていましたので、家族への影响もさほど大きくないと思えたタイミングでもあったのかもしれません。

― 逃げない姿勢をお持ちですね。

高木:逃げない、というのか??? なるべく自分に素直でありたいと思っています。自分らしく生きる方が、自分も周りも楽。コミュニケーションも図りやすいですよね。たとえば、できないことはできないと言う。无理してできると言っておいて相手に迷惑をかけるよりも、「これはできないけど、これなら??」という姿势の方が、自分にも素直になれるし、嘘やハッタリもなくてすみますよね。

自分のありのままをさらけ出せばいい。いつからかそういうポリシーになりました。
多分にオーストラリアと元妻の影响が大きいかなと??!(笑)

(左から)長谷川(东京オフィス所長)、高木嘉幸氏(1983年法学部卒業)、田中(东京オフィス職員)、

千野信浩氏(1985年総合科学部卒業)、松永州央氏(1990年法学部卒業)、北池(东京オフィス職員)

东京オフィス 田中の感想

今回初めて取材に同行させていただいたため紧张しておりましたが、终始、和やかな雰囲気でお话しいただきました。
自分らしく最善を选ばれてきたと教えていただきましたが、结果的にはそのうちの多くが、周りの方へ心を配られた上でのご决断であったと感じました。
仕事において「できない」と言うことは意外に难しく、また、できないことを抱えることの苦しさや自分らしく仕事ができることの良さは、皆さんご経験があるかと思います。トップの方がそういった感覚をお持ちであると、きっと素晴らしい公司になるのだと実感しました。
自分がどうしたいかを选んできたことが、高木社长の今の结果に繋がっておられるということを知り、今后何かを决断する际に勇気をいただけそうです。
大変お忙しい中、贵重な経験をさせていただき、ありがとうございました。

株式会社コスモスイニシア 代表取缔役社长 高木嘉幸氏
【前编】はこちらから↓
なるべく自分らしく生きるように(前编)

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