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第57回 「トゥーランドット姫は電子産業の夜明けを見るか?」 村上裕二 (2012/03/30)

  エルピーダの経営破綻がニュースを賑わせました。これに前後して、化学専攻の私は次代の半導体産業を支える若手を育てる職に就くことを決めました。その採用が正式決定した翌日、私の赴任先となる豊橋では、とあるオペラ団体のコンサートが開かれていましたので拝聴しました。さらにその翌日、私を育ててくれた広島のオペラ団体の公演も観劇しました。意外に両団体の来年の演目は『トゥーランドット』。そういえば、前職の藤沢で演じた最後の演目もトゥーランドットです。いろいろ思うところがあります。 

 プッチーニ作曲のこのオペラ『トゥーランドット』はフィギュアの荒川静香选手がトリノオリンピックで金メダルを取ったときのBGM「谁も寝てはならぬ」で有名なオペラです。竹取物语と同様に、结婚に无理难题を课す谜解き姫のお话。姫の强すぎる贞操感が灾いして求婚者の首は次々とはねられることに。それでも挑戦者が后を絶たないほどの絶世の美女。首切り姫と言えば闻こえが悪いですが、姫は结婚がいやで、求婚されないように首をはねるという掟を布告するように皇帝である父に闻き入れてもらいます。しかし掟に沿って何十人もの首をはねることになった后となって皇帝はその神圣な掟を决めたことを后悔する毎日となっていました。ところがある勇敢な异国の王子が难问をクリアーしました。それでも嫌がる姫に皇帝は「これも神圣な掟である」となだめます。すると异国の王子は譲歩するがごとく1つ谜を出します。姫はその答えにたどり着くも自らの意志で结婚に応じるというハッピーエンドのお话。&苍产蝉辫;

 ベースのお话は中央アジアで千年くらい前に生まれたらしく、ちゃんとした原作がフランスで成立したのはフランス革命前。そしてオペラ作曲はフランス革命后です。原作ではあらゆる登场人物が首切りを歓迎はしていません。プッチーニはおそらくこのオペラの前半で、フランス革命さなかのパリ市民が首切りショーに沸いていた狂気の时代を描いています。オペラの时代のほぼ最后に位置する大作曲家の遗作にふさわしい重厚な和音を、オケピットに収まらないほどの楽器と大规模合唱が奏でます。人の心を忘れた市民たちが、破灭を待ちわびる。そんなシーンが描かれています。そしておそらくオペラ最终シーンでその対比となる次の时代も描くはずでした。プッチーニは当初からこのオペラ最后に置かれる二重唱を际立たせることを主眼においており、そのために原作にも修正を重ねました。原作の前半、终盘を大幅にカットし物语を一夜の话として、クライマックスの时间帯を早めて夜明けの时刻としました。原作では不可解だった最后のどんでん返し「姫が突然结婚に同意する」理由を描くべく、原作では结婚同意后に出てくるサブキャラの死というエピソードを二重唱の手前に置きました。しかし、そのエピソードまでの作曲と、最后の二重唱のスケッチを作ったところで病弱だったプッチーニ自身の容体が急変してお亡くなりになってしまいました。今日の私たちが聴くこのオペラの终盘は、当初から初演を振ることが决まっていた大指挥者トスカニーニの监修で、そのスケッチをもとに别の作曲家、アルファーノにオペラを完成させてもらったものです。紆余曲折を経てオペラ台本は最终稿と呼ばれる状态になっていました。作曲スケッチもありました。现状の补作版は、和音がシンプルすぎるなど补作者の力量不足があるものの、プッチーニが思い描いたオペラにずいぶん近いはずです。  ただこれまでも远虑なく製作途中に前言を撤回して修正を重ねたプッチーニなら、もう少し何かを変えたのかもしれません。変えたんじゃないかなと予想します。サブキャラの死があまりに上手く书けているので、最后の二重唱はそれを超えないと话が成立しないのに、ちょっと终曲が弱いんですよね。サブキャラのエピソードを绞るはずのプッチーニが、ここではむしろ失败した、ともささやかれています。&苍产蝉辫;

 さて、このオペラには3つの意味の终焉が含まれています。ひとつはオペラの时代の终焉。およそ1600年顷イタリアで歌を伴った剧が発达し、とくにバロックという时代を切り开いた天才モンテヴェルディが现代でも通用するオペラをこの顷书き上げました。それから300年、経済の発展とさまざまな技术との融合でオペラは娯楽の最高位にいたのですが、映画やラジオ、テレビなどのメディア技术がオペラを最高の舞台から引きずり降ろしてしまいました。このオペラ最后の时代の花形作曲家の地位にいたのがプッチーニです。広大学士会馆内のレストランの名前にもなっている『ラ?ボエーム』の他、『トスカ』『蝶々夫人』などオペラハウスが定番に掲げる有名演目を多数生み出しました。そんな実质をともなった华やかさの世界で、はからずも最后の作品となったのがこのトゥーランドットです。二つ目はプッチーニ自身の终焉。存命中からこれだけの成功を収めた人で、すでに大御所となり、死期を悟るというほどでないものの自分が世に送ることのできる残り少ない作品として书き始めた作品でした。そして书ききることができないまま他界しました。叁つ目は物语が描こうとした狂気の时代の终焉。第1次世界大戦を终え、戦胜国ながら混沌とした时代を迎えていたイタリアで、平気で人が死ぬということを狂気として扱い、それを否定する作品を生むのは当时の芸术家として自然な流れでしょう。首切りシーンを原作以上に书き込み、冷酷な姫という问题でなく、むしろ市民の狂気という世界全体の问题として书き上げました。
 しかし否定するだけなら凡人のやることです。かつてない新しいことをやるにふさわしい物语を探し続けてたどり着いたお话。どんでん返しを描くクライマックスの二重唱に赌けるものがあったはず。


それは伟大な二重唱でなければならない。これら二人は――いわば、现世の外に立っているこの二人の男女は――爱を通じて真の人间になるのであって、しかもその爱は、管弦楽が力强い终曲を奏でる中で、舞台上のすべてのものを包んでしまわなければならないのだ…(1921年秋)

トスカニーニ君は、たった今ここを去った。我々は例の二重唱のことを论じあったが、彼はその出来をあまり感心しなかった。いったいどうしたらいいのだろうか?私には分からない。(1924年9月7日)

それ(台本作家から受け取った二重唱の歌词)は、本当に美しい。これで二重唱は完全になり、正しいものとなるだろう。(1924年10月8日)

『プッチーニ』(モスコ?カーナ着 加纳泰訳 プッチーニ(1924年11月29日没)の书简より

 

 そういえばエルピーダ破绽を受けた多くのコラムが时代の终焉を语りました。顿搁础惭って终わコンでしたっけ。
化学の世界から来た私には、半导体业界の空気をかなり异质に感じます。中でも惊愕なのがムーアの法则を基盘とするロードマップの文化です。たしかに化学の世界でも1,2年先程度のことは、细かく开発?商品化スケジュールが决まっていたりします。しかし、时间轴に沿って安定して开発が进むパラメータはまずありません。一定ペースで微细化が进み、その1パラメータに合わせて进化し、过去の自社商品をどんどん陈腐化させる。むしろ自杀行為ともいうべき业界の法则をだれもが受け入れている。この业界についても、狂気とすら感じます。
 また一方で繊维メーカーにいたものとして、最近のエルピーダ経営破绽に向けた论调を奇异に感じます。単一商品を扱っている、という部分以外、これらのコラムがダメだと指摘する要因のほとんどをかつての东レも持っていました。実は私も入社してしばらく経つまで、斜阳产业の繊维に未来はないと何も知らないまま思い込んでました。小泉?竹中経済改革直前、3月危机、9月危机と経済论者が煽っている中、东レが70年超の歴史で初の赤字を出した顷です。意外にもその繊维事业は、その后、ユニクロを支え、ヒートテックを产みだしました。さらに炭素繊维でボーイングの新型机を飞ばし、新事业のPDPで松下のV字回復を支えるとか。そんな賑やかな话を社员として闻いていられたのは他部署ながら楽しかったです。40年くらい前、有名大学の理系のトップ成绩で、さらに入社后にも高い行动力、统率能力で成果をあげた人たちが、いまこの会社のトップにいる。全社的に危机意识を共有して、雇用は守りながら开発力を高め、コストを下げて、繊维に过度な期待を持たない成长戦略。経営のことはよくわかりませんが、あちこちのコラムが指摘するような问题は纸一重でどちらにも転ぶようなところだということでしょう。

 さて、トゥーランドット。この狂気の国にやってきたのは异国の王子です。姫の问いに答えて见せた王子は逆に问いました。「私はだれか?」。夜明けまでのわずかなタイムリミットに向けて姫は街中に布告を出して市民を巻き込みました。彼の名前を探せ。探せなければ全员処刑だ。だれも寝てはならぬ。この布告を横で闻きながら「『だれも寝てはならぬ』ですか。胜つのは私ですけどね。」と歌うアリアが有名な「だれも寝てはならぬ」です。サビ直前で市民たちが「わたしたち死んじゃうの」と怯えるひとフレーズを歌います。そこだけ取り出すと、民众を恐怖にたたき落とす酷い王子と王女なんですけど、结论は実は违うんですよね。姫が出した3つの谜、3问目の答えは姫の名前。王子が出した唯一の谜の形式的な答えは王子の名前。结婚に向けた问答ならではの设问でもあります。しかし王子の名前自体は本当の答えではありません。原作の表现で言えば、「国中の学者を集めたくらいの知恵者」同士の问答です。名前も大切なことですが、闭塞感のある狂気の时代に终止符を打つほどのものではありませんよね。これから迎えるべき世界そのもののキーワードが问われていました。&苍产蝉辫;

 サブキャラである、异国の王子の使用人であった娘は、形式的な答えである王子の名前を知っていました。さらにこの娘は本当の答えを兼ね备えた人でした。形式的な答えを秘密を守り抜くために自害します。しかし死の直前で何度も本当の答えを口にします。答えだからこそ、原作とは异なり、最后の二重唱の前にこのシーンが配置されたはずです。しかし姫にも、大臣にも、学者にも、居あわせた市民たちにも、それがダイレクトな答えであることとしては届いていません。ただこの娘の死を通じて徐々に何かを理解し始めます。でも狂気の世界の流れに沿って娘を追求し、死に追いやったのです。命令を出すのは姫ですが、それを支持し浮かれるのは市民でした。

 このオペラで最终台本での本当の答えは爱でした。この狂気の国を救う异国の王子とはだれかという意味で、爱が答えです。
 回答期限は夜明けまででした。あらゆる学问に精通したトゥーランドット姫は异国の王子の「カラフ」という名前を王子自身から教わったところですべてを悟り、皆を集めてその答えを高らかに歌い上げます。时刻としての「夜明け」と、この国の新たな「夜明け」。これらを表现した爱に満ちたオーケストレーションの最终版は、音响としてでなく、一部の聴众の心の中だけでしか鸣り响かない、そんな神の领域の音楽になってしまいました。プッチーニはスケッチまで残した。アルファーノはよくやった。トスカニーニはよく导いた。残りを现代の演出家が作り上げ、その舞台に立つ役者たちが演じきれるか、という难しい作品です。そのスペクタクルを动かす舞台里のみなさんも、その予算をかき集めるもっと运営サイドのみなさんも、ほんとご苦労様です。もはや入场料収入だけでは成立しない世界にいっちゃいました。

 プッチーニは天才作曲家ですが、作品の生み出し方に特徴があります。それはチーム作业です。プッチーニの前の时代に、ワーグナーとヴェルディという二人の巨匠がいました。プッチーニはこの二人に大きな影响を受けています。剧作家を志しながら突然作曲に目覚め、自作で台本と作曲の両方を手がけることができたワーグナーの存在を熟知していた彼は、台本の重要さを高く意识していました。大学を出たばかりの顷はすぐれた台本作家に出会うことを求めていたものの、早くから台本作家を自分で使い倒す方式を採り始めました。斩新なストーリーを描く作家と、ハイセンスな言叶を当てはめる作家一人ずつにプッチーニを加えた3人のチーム。さらに加えてもう一人。楽谱屋さん。楽谱屋は、远虑なく书き直しを指示し続けるプッチーニにぶち切れの作家たちをなだめまとめる役でした。プッチーニは総合芸术を一人で生み出せるほど、底なしの天才ではありませんでした。しかし理想の作品に忠実な天才作曲家です。客が満足できるように修正を繰り返す。度重なる书き直し指示に结果的に応じた作家たちも、そのコーディネイトをやりきった楽谱屋もすばらしい。自己満足でなく、そういう商业主义に支えられたチームだからこそ、多くの人が共感する优れた作品を生み出し続けることができたはず。

 ふと任天堂Wii Fitの開発物語を読んだとき、プッチーニの伝記に描かれている世界に似ていると感じました。任天堂の人たちはだれも成功したことのなかった体重計のエンターテイメントを、ゼルダの伝説の次回作を作りたくて入社してきたようなメンバーで開発してみせました。一旦決まって動き出したはずの事項を、つまらなくなりそうなら遠慮なく白紙撤回するというプッチーニの手法は、任天堂社内で「ちゃぶ台返し」と呼ばれているそうです。ちゃぶ台返されちゃった担当者の心中お察しいたします。ですが、優れた商品の恩恵を受けるユーザとしてはありがたい話です。
任天堂に限らず日本の会社が成功するということは、たった一人の天才がすべてを切り开くというような话ではありません。たいていチームの仕事です。もちろんずいぶん头のいい人、器用な人たちがよってたかって、体に悪そうな苦労をした末になんとか生み出されます。よくないチームはみんなで决めたことだからと谜の决まり事に缚られて、みんなで苦労してつまらないものを作っていきます。本当に仕事ができる人は、一时的に迷惑でも、ともかく変なことになりそうなら「ちゃぶ台返し」をやります。トップが一人で「ちゃぶ台返し」をやっているわけでなく、必要に応じてそのときどきだれかがやるようです。そんなチームだからこそ、优れたオペラが生まれ、优れたゲームが生まれ、繊维の不况とも渡り合えたはずです。&苍产蝉辫;

 チーム运営とは。わがままを通せということではありません。直感で胜负しろというわけでもありません。ちゃぶ台返しが许される环境であることが大事です。今どきなら、明确な目标を持って、自分のスペシャリティを持ちながら、常に相手をレスペクトし、声を掛け合って、ポリバレントに、积极的に无駄な动きをする。そういう考え方を共有すること。これで、结束と连动と感动が生まれる。日本人向けのチーム运営はサンフレッチェサッカーが见せるそんな哲学から来るのかなと思っています。そんなチーム运営もこれから必要な器用さの一部かと思います。

 长らく、この电子产业の业界に若者を送り込むことに荷担して良いか、自问自答していました。このままの业界というなら否定的に捕らえています。20年ほど前、ちょうど私の同期が社会に出る顷、とくに头のいい人が入社、配属された先。それがこの业界です。今やそのだれもが危机感をもってます。しかしその危机は単纯にこれまでの一本道をいままでどおりまっすぐ行くと壁にぶち当たるという、他业界では普通に当たり前の话です。多くの解决への糸口が提示されています。どれが本当の答えかわかりませんし、私が例の「异国の王子」だと言うつもりもありません。もちろん沉んでいく船に乗ることはお荐めできません。戦争末期、戦舰大和を建造したのは愚策だと思います。だけど时代が変わって船头多くしてその船を宇宙に飞ばすなら、そんな船に乗ってみる人生、楽しいですよね。器用にこの业界を渡っていけば、たぶんみんなでおもしろい夜明けに立ち会えるでしょう。

 长らく、これからこの电子产业の分野に优秀な若い人材を送り込むことに荷担していいのだろうかと自问自答し続けていたのですが、ようやく不安が减ってきました。


(2012/3/30)


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