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第37回 ステレオタイプ勉强法

 日常生活で何かを决断しなければならないときに、さまざまなツールを通じて色々な情报を取得できるがゆえに、膨大な量の情报に振り回されて、适切な判断を下せなかったり、时宜に适った判断を逃したりすることもあるようです。それを避けようとすれば、むやみに情报を求めることをやめてしまうか、あるいは膨大な情报から重要なものを选択する能力(=选别眼)をもって対応するかということになりそうです。

 最近は、十分に解明されていない诸事情を考虑に入れて思考を组み立てることが面倒であるとして、これを避けるようです。一足飞びに结论を求めて、思考に时间をかけることに我慢できず、効率性と迅速性の観点から固定観念に基づく决断を下してしまう倾向が见られます。その际に、诸事情を切り捨てるあるいは収集もしないための道具が固定観念です。「これはこういうものだからこうする」というステレオタイプの判断を下すようです。これも、さまざまな情报を衡量する烦雑さを避け、意思决定に注入するエネルギーを低减させるとともに、たいていの场合に多くを説得でき、明らかなミス?ジャッジを招かないので、そう问题となることも、问题だと感じさせることもないのでしょう。

 しかし、デメリットもあります。ある事项に関する个人的経験がその暗黙的な通念と一体化することにより、それに対して固定観念による判断がなされますので、本来、普遍性に欠けた思考がまかり通ってしまいます。少なくとも固定観念を検証しなければ、客観性も実証性も欠いたまま世界を自分に都合のよいように解釈して判断を下すこととなり、反知性主义に陥るのではないでしょうか。

 最近の新书では、ステレオタイプ思考につき、「ステレオタイプ思考の桎梏から离れて自由な思考を展开するのが难しく」なり、「ステレオタイプ思考ばかりを使い过ぎると、思考がなまってくるし、头も硬くなってくる」、「それに加えて、恐ろしいのは、见えるものも见えなくさせてしまうことである」との指摘がなされています。なかなか怖い指摘です。

 この指摘が残念ながら正しいことを思い知らされる时があります。それは学生の答案を採点しているときです。授业时には、受讲生にステレオタイプによる勉强を积み重ねてそれが通常の勉强法であるとの思い込みが见られる际には、その修正にかなりのエネルギーを费やします。少しは変わったかなと期待しつつ、答案を见て、「あらら、何の疑问も抱かずに刷り込まれた魔术はそう简単には解けないな。」と痛感させられます。

 とは言っても、あるべき姿を想像し、そこに向かって创造性のある柔软な思考を积み重ねて、未知の问题にも対応できるような法曹の养成を目指すことからすれば、ステレオタイプの思考法はまったく正反対な学修态度です。これを打ち破ることが求められます。

 先の新书では、ステレオタイプを时折棚卸しすることで世の中が新鲜に见えてくるとして、その具体的方法に、①他の人のステレオタイプとの比较、②ステレオタイプが真理ではないかもしれないことを学问的?科学的に追求してみること、③ステレオタイプにあわない例を探すことが挙げられています。これらは法曹を目指す际にも试す価値があるでしょう。基本原理?原则、判例や制度を、そこに立ち返って考え、使えるように、それらをより深く理解してもらうために、比较の手法を用いることがあります。その际に抽象的な法概念を指摘して思考が止まってしまい、それ以上の解析はお手上げになってしまう、具体的事実を慎重かつ丹念に追いつつ整理することが苦手で、事案の违いを浮き彫りにできず、知っている判例の范畴に取り込んで结论を下してしまう倾向が见られます。

 唯一の正解である结论と思い込むことで迅速に思考を切り上げることに狎れてしまい、一つではない结论を导く思考のプロセスやそのためのフローチャートに乗ることも面倒であり不安なようです。どうせ自分ではできないからと受験勉强の习い性でトレーニングの前にあきらめてしまっているのではないでしょうか。それが思考の钝りであり、头がかたくなっているのであり、见えるものが见えてこないという、ステレオタイプ思考の弊害であると思われます。

 次回は「成功への道筋―いまなすべきこと」です。


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