法科大学院のみならず、多くの教育机関において、授业における受讲生の积极参加を促す教育方法が非常に高く评価され、さまざまな教育技法が开発され実践されています。それは大変贵重なことです。多様な受讲生がいろいろな教育の机会に触れ、そこから刺激を受けて、自ら知性を高める努力をすることに喜びを感じられるようになるのであれば、それは何よりの教育成果です。
法科大学院制度の创始期にはソクラテスメソッドがその教育の象徴のように言われましたが、现在では、ソクラテスメソッドという対话を通じた问答法は「廃れた」と言っても过言ではないでしょう。廃れてはいないという意见があることはまさに歓迎すべきことですが、现在ソクラテスメソッドと呼ばれている手法は双方向での质疑応答にすぎないように思われます。ソクラテスの対话は、相手の正しい考えと正しくない考えとを区别し、本质と非本质とを分かち、1つの観念を他の観念によって补充?修正して、相手がその内に秘めた真理を自分の力で生み出すようにする「助产术」です。ソクラテスの问答法は、対话における意见の交换と修正を通じて、个々の事物からその本质を示す普遍的概念(定义)を引き出すことを目标とします。
しかし、多くの双方向授业は、知识の授受が质疑を通じて行われ、予习等の学修の结果を确认する、次いでその知识を使う、深めることは通例讲义形式で补われています。そこには「助产术」は见えません。これは、授业で取り扱うべき事项がその内容とレベルを最低限保持するよう求められること、授业时间には限りがあることなど、多くの客観的な制约により、质疑応答の手法にとどまらざるを得ない结果かと思います。しかし、客観的な制约があるにしても、质疑応答では问いに対する正しい解答を即座に出すことが重视され、学修の成果は正しいか否かの二者択一に収敛するおそれがあります。それは学ぶ侧の関心を引き出すレベルでは一つの试みとして有益であるでしょうけれども、その観点のみでの学修は、ソクラテスの目指した、主体の心の転换を生み出し、知识を自らの行动に示すことをもって「知った」とするレベルには至らない「无知」のままです。しかも学修主体はそれに気づいていないと思われます。それは、ソフィストが弁论术を知识として教え、意见を戦わせて相手を打ち负かすことに自己満足を得るのと変わりがないでしょう。
自らが内面的自覚に基づく真理の発见を経験し心の転换を実践した主体のみが、他人にその体験を生み出すよう导けます。そのような体験をする机会が教育の场に创られることが重要なのです。そのために教坛に立つ者は心の転换を伴う知识の修得を意识し、自己の内面に起こった真実の発见を通じて、教育においてその実践をなすことが求められます。この知识の修得経験がさまざまな未知の问题を解决する智慧を生み出す源泉だと思います。教える侧に知识偏重の意识のみがあれば「知った」ことを経験させることがなく、その経験の丧失とともに、ソクラテスメソッドは消えていくでしょう。自戒を込めて。
最后に、入江波光画伯の言叶です。
「知っていることと、创ることとは无関係です。
1つのこころみは、けっして、1つのみに终わることなく、それをきっかけに、それからそれへと、つながりをよんで新しい世界を见せてくれます。
体得の中から、识る世界を、ひろげ、深めて、学ぶべきだと思います。」
次回は「敬虔と跪拝」です。
