香川県の真宗兴正派の寺院に生まれたので、仏教は身近にありましたが、だからと言って仏教に兴味があるわけではありませんでした。勉强が好きではなく、そもそも当初は大学に进学するつもりもありませんでした。高校3年生の夏、母亲と参加した中国ツアー旅行で、东洋史専攻の大学生のお姉さんと出会い、彼女があまりに楽しそうに中国史を语るので、大学での勉强はもしかしたら楽しいのかしら、と思って、一転、受験することにしたのです。大学では仏教学を専攻しましたが、讲义を楽しいとは思えませんでした。
20歳を目前にした时、目的もなくダラダラと大学生活を送っている自分に焦りを覚えて、パリに一人旅に出ました。言叶がわからない土地で1ヶ月生活できたら、梦なんか无くても生きていけるような気がしたのです。その间、地元の小さな教会を巡りました。一番后ろのチャーチベンチに座って教会内をキョロキョロと観察するのが好きでした。最初の顷は建造物やステンドグラスの美しさに目を夺われていましたが、次第に教会に来る地元の人の姿に関心が移りました。どの教会にも真挚に祈りを捧げる方がいて、その后ろ姿がとても美しいことに気づいたのです。人が祈る姿はなんと美しいんだろう。翻って私は、同じく人が祈りを捧げる対象である仏教を学ぶ场を与えられながら、何も主体的に学ぼうとしていない。つまらないと思いながら、なぜつまらないのかさえ知ろうとしない。あまりに不诚実ではないか。ともかく足元にある「仏教学」に全力を倾けてみよう、何かに一所悬命になったことがある大人になろう、そう思って帰国しました。
真剣になって取り组んでみれば、こんなに面白い学问はありません。2500年前、人生の苦しみをどのように克服するかという具体的な方法论を探ることから始まった仏教は、认识论や存在论といった抽象的な议论から、どう生きるべきかといった具体的な指南、理想的に生きることができない人に向けた救済の手立てなど、さまざまなアプローチが用意され、また时代ごと地域ごとに、手を替え品を替え目の前の人の苦しみに処方されてきました。あらゆる研究题材がそこかしこに転がっています。しかも先辈から后辈へと受け継がれ、レイヤーを重ねて少しずつ変化してきた仏教の教えは、しかしなぜそのように変化したのか、重ねられたレイヤーを分析研究しないことにはわからないことばかりです。意外でした。仏教なんてもう全てわかっていて、「出来上がった」ものだと思っていたのに、私は先人が作った道だけを道だと思っていたのです。荒野を切り开くようなワクワク感が仏教学にはありました。
歴史学?仏教学の研究者たちと日中间で行われた教义问答についての书籍を出版しました。
また日本には、既公开?未公开を含め大量の东アジア仏教资料が现存しています。汉字文化圏は広く东アジア全土に拡がるので、日本に现存する资料を読解することで、日本のみならず中国や朝鲜半岛といった広大な地域におけるそれぞれの时代の仏教のあり方を知ることができます。私は特に日本仏教の戒律思想の展开を専门としていますが、日本仏教のルーツである中国や朝鲜半岛の资料を同じ言语で読解できてしまうのが楽しくてしかたありません。
さらには日本文化のほとんどには仏教が関係しているので、歴史学や美术史といった他分野の研究成果を踏まえることで、より相乗的に新しいことを発见することができます。仏教学研究だけでは知り得なかったことに気づけるのは、异分野の研究者と交流することの醍醐味です。
振り返ると、自分の研究生活の要所?要所には、いつも真挚に生きている人との出会いがありました。大学生活を楽しむお姉さんに出会わなければ、教会で祈る人々を见なければ、研究にのめり込む他分野の研究者に出会わなければ、今の私はありません。真挚に生きる人との出会いが、常に自分の足元を照らし、行くべき方向を示してくれました。现场で仏教を支える真挚なお坊さんに出会い、彼らに役立つ研究をしたいと思うようにもなって、近年は现代的な问题について、これまでの东アジアの学僧の见解をまとめるような作业もはじめています。今后もそうやって、人に出会いながら、研究分野を拡张していくのだろうと思います。それだけの土壌が仏典には十分用意されているのです。
韩国の国立中央博物馆で见つけた、ブッダの现代アート!

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