1990年(平成2)、高校3年の夏、私は「文転」しました。もともと国语と社会が得意で英语は苦手、理科は好きだが数学が苦痛という典型的な文系タイプ。それを自覚していながら、高2の进路希望调査票には就职を意识して「工学部志望」と书き、理系クラスを选んでいたのです。ところが、公民馆の学习室で代数几何の问题を解いていたとき、ふと思ってしまったのです。「こんな好きでも得意でもないことを、この先40年も続けるのか」と。
――世の中には、これが好きで得意という人がいる。今は100点満点という上限があるので差は10点前后だが、社会に出て上限がなくなれば、そういう人は1000点も1万点も叩き出す。一方、自分は100点に届くこともない。これを40年続けたら、どれほどの差になるか。「就职に有利」と思って理系を选んだが、长期的にはむしろ不利ではないか。せめて「好きなこと」ならまだ楽しめるけど、これは好きになれそうにない――そう思いました。
话がそれますが、私は中学?高校とバスケットボール部に所属していました。副キャプテン、キャプテンを任されるくらい、真面目に练习していました。スポーツを真剣にやっていると、いやでも「才能」という现実に向き合わされます。私は中学のころ、瞬発力で他人に大きく劣ることに気づき、バスケには向いていないと自覚しました。でも、やめませんでした。楽しかったからです。孔子の言叶に「之を知る者は之を好む者に如かず。之を好む者は之を楽しむ者に如かず」〈雍也〉とある通りです。[※1]
広岛大学での研究室(础657):左上は大学4年でインカレに出场した时の记念パネルです。
奥の掛け轴は岳麓书院の学规。
才能や适性の有无を见极めるのは难しいものです。现実は「ステータス?オープン」とはいきませんから、谁しも全く适性がないジョブを选んでしまうリスクがあります。それでも「自分が好きで、楽しめること」を选ぶことだけはできます。私は汉文や中国のことが好きでした。テスト勉强も楽しんでやっていたくらいです。そこで文学部志望に変更し、広岛大学文学部哲学科中国哲学専攻(现?中国思想文化学)に入学しました。孔子が「吾十有五にして学に志す」〈為政〉と言うなら、私は「十有八にして学に志した」わけです。
进む道が决まっていたので、卒业后は自然に大学院へ进み、2001年(平成13)に博士课程を修了しました。いわば「叁十にして立つ」です。しかしなかなか研究职に就けず、広岛周辺で非常勤讲师を掛け持ちして7年ほど过ごしました。结婚して子どもも二人いましたので、そろそろ限界かと思い始めた顷、思いがけず台湾から声がかかりました。この时、「日本でも研究は続けられる。でも、プロとして生きるならこれに乗るしかない」と腹をくくり、渡航しました。孔子の「四十にして惑わず」とはこういう覚悟のことかもしれません。この时、「いいよ、行きたいんでしょ」と即答してくれた妻には感谢しかありません。
それから、35歳で台湾の私立大学に10年、45歳で中国の国立大学に5年、50歳で帰国后は宫崎で学芸员やカリキュラム?コーディネーターを3年务めました。台湾へは妻と幼い子ども二人を连れて移住、中国と宫崎へは単身赴任でした。傍目には苦労したように见えるかもしれませんが、好きな研究を続けられたので「楽しかった」という感想しかありません。[※2]
胜利斎:湖南大学岳麓书院の教员栋。
1948年に竣工した古い建物で、文化财に指定されています。雰囲気は最高でした。
そして2025年(令和7年)10月、出身である中国思想文化学に教员として戻ってきました。大学院を出てから四半世纪――何とまあ长い道のりであったことか。孔子は「五十にして天命を知る」と言いますが、53歳の今も、自分にこの方面での才能があるかどうか分かりません。それでも、18歳で広岛大学に入学してからの35年间が「楽しかった」のは确かです。孔子の言う「天命を知る」とは、これまでの人生を「これでよかった」と肯定できる心境なかもしれません。
人文学への进学に迷っている高校生の皆さん、「何が得か」より、「何が楽しいか」をどうか大切にしてください。才能や适性は分からないものです。いま流行りの职业も、础滨の进歩によって4年后にはどうなっているか分かりません。でも「好きなこと」は、どんな状况でも皆さんを支えてくれます。「楽しい」と思える方向に进めば、それが皆さんの「天命」へとつながっていくはずです。
※1 结局、広岛大学でも体育会バスケ部に所属し、副キャプテンを务めました。
※2 腹が立ったことは山ほどあります。やはり外国で暮らすとなると、日本とはいろいろ违うので。

Home
