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解题:広岛県原爆被害者団体协议会関係文书目録

执笔者

石田雅春

1.&苍产蝉辫;资料の来歴、寄赠の経纬

 本资料は広岛県原爆被害者団体协议会(以下、広岛県被団协と略)の発足準备期(昭和30年9月顷)から昭和36年4月顷までの事务局资料の一部である。広岛県被団协は、広岛県内の原爆被害者组织の连合体として昭和31年5月に発足した。この広岛県被団协の资料群については、宇吹暁氏が昭和50年代后半に调査?整理を行い、その内容を学术研究で绍介したため、研究者の间で存在が知られることとなった(同资料群は、资料を収蔵していた建物の名前にちなみ「平和会馆资料」と名付けられた)(1)
 こうして整理された资料群の原本は目録とともに広岛県被団协へ返却され、同事务局が引き続き保存?管理することとなった。一方、资料の整理に际して宇吹氏は主要なものをコピーし、当时、助手を务めていた広岛大学原爆放射能医学研究所(のち原爆放射线医科学研究所と改称)の内部资料として収蔵したのであった。
 平成16年1月、広岛県被団协が中岛町から大手町へと移転することとなった。その际、たまたま作业を手伝っていた小畑弘道氏が资料の一部を譲り受けることとなった。その后、関係者が逝去、あるいは交代するうちに、広岛県被団协内において、これらの资料群の所在が不明となり、発见に努める状况となっていた。
 こうしたなか、小畑氏が保管していた資料について、近年、毎日新聞社の記者が原爆関係の取材を進めるなかで偶然出会い、公的機関での保存が適当として、記者の仲介のもと広島大学文书馆が資料を受け入れ、広島県被団協の許諾を得て公開を行うこととなった。

2.&苍产蝉辫;资料の状态、整理の経纬

 受け入れ时において、本资料は3つのかたまりに分けられ、それぞれ薄叶纸によって包まれていた。このうち2つの包みには、それぞれ簿册1点と复数の一纸物の文书が一绪にまとめられていた。これに対して、もう1つの包みには簿册1点のみが入っていた。薄叶纸に包まれた时期や経纬が不明であったため、とりあえずこの包みを原秩序とみなして、仮目録の作成が行われた。あわせて、広岛県被団协の草创期の贵重な资料であることが一见して分かったため、最初から细目録を作成する方针が取られ、簿册に缀じられた文书は1点ずつ採録されることとなった。
 また、本资料は戦后の物资が乏しい时代のものであり、大半の文书は纸质の低い再生纸であった。このため酸性纸劣化が相当进行しており、中折や叁つ折りされた文书の折り目の部分が断裂しているものも多く、簿册をめくるたびに劣化した纸片が脱落するような状态であった。このため採録が完了した文书を顺次、専门业者に委託して修復を行うこととした。あわせて修復后の文书であっても、原本を閲覧に供すると劣化の进行している部分が破断する恐れがあるため、カメラによる写真撮影を行い、デジタルデータをもって公开することとした。
 このように整理と公开の準备を进める一方で、文书の鑑定が行われた。受赠の时点において、本资料が広岛県被団协と関係のある文书であることは推定されていたが、どういう性格の资料であるのかということは分かっていなかった(上述のような来歴は、受赠后の调査によって判明した事実である)。そこで资料の形态と内容の両面から调査を进めたところ、ペン书によって作成された文书(写しではないオリジナルの文书)のいくつかが、『広岛新史歴史编』に引用されていることが分かった。また、目録作成の结果、ほぼすべての文书の右下に铅笔书で整理番号と思われる通し番号が付されていることが判明した。
 笔者は以前、原爆资料の収集、保存に関する研究会で宇吹氏の报告をうかがったことがあり、本资料が「平和会馆资料」の一部ではないかと推定した(2)。そこで広岛大学原爆放射线医科学研究所が管理する「平和会馆资料」のコピーを确认したところ、一致するものが见つかった。さらにコピーと原本の中身を详しく比较したところ、受赠时に确认した薄叶纸の包みは本来の资料の秩序とは関係がなく、いつの时点かにおいて簿册の缀じ纽が切れ、バラバラになった文书がたまたま一绪に包まれていたことが判明した。そこで「平和会馆资料」のコピーを参考にしながら、资料の并び替えを行い原秩序の復元に努めた。
 ただ、「その他の件    被団協」と題された簿冊については、元の文書の一部しか残っていなかった。このため残った文書を当初の順番に従って配列したが、欠落が生じている。また、復元作業をおこなっても、元の所在が分からない文書が数点のこった。このためこれらの文書は一紙ものとして整理を行い、目録上は簿冊のあとに配置することとした。

3.&苍产蝉辫;资料の学术的価値

 本资料を含む県被団协の歴史的文书は、上述のように宇吹暁氏の手によって整理され、学术研究の用に供されてきた。こうした先行研究の成果を踏まえると、県被団协の発足前后のできごとは新闻でも断片的にしか报じられていないことが分かる。このため同时期のできごとについては、本资料でなければ里付けの取れない事项も少なくない。原爆被害者による运动は现在も连绵と続けられているが、本资料はその出発点の証拠书类であり、これらが失われずに伝えられてきたことは大変意义がある。
 いずれにしても被爆地広岛の原爆被害者达による运动の记録は、原爆被灾という特殊性ゆえ、他に类例を见ない资料である。本资料の公开を通じて运动の実相や担い手の思いが明らかとなり、これからの被ばく者救済や核兵器廃絶を求める活动の一助となれば幸いである。

 

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(1)「まどうてくれ 藤居平一闻书き」『资料调査通信』5~9号、25~29号(広岛大学原爆放射能医学研究所附属原爆被灾学术资料センター、昭和56~58年)、『広岛新史 歴史编』(広岛市、昭和59年)、宇吹暁『ヒロシマ戦后史』(岩波书店、平成26年)等参照。
(2)『広島における原爆?核?被ばく関連の史?資料の集積と研究の現況平成23年度科学研究費補助金基盤研究(B)研究成果報告書』(小池聖一編集?発行、平成26年)。なお、広島大学文书馆のホームページでPDF版を公開しているが、宇吹氏のインタビュー記録はご本人の希望で紙媒体の掲載に限り、インターネット上では公開していない。


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